大津は平安時代より東国から京への入口で、
延暦寺、園城寺、石山寺等の大寺院もあり、
人や物の大いに行きかう港町でした。
戦国時代には織田信長が比叡山焼討を行い、
明智光秀が坂本城を拠点としますが、
光秀は羽柴秀吉に敗れて廃城となり、
代わりに大津城が築城されています。
関ケ原の戦いの前哨戦の大津城の戦いでは、
京極高次が西軍1万5000を釘付けにし、
立花宗茂、毛利元康が本戦に間に合わず、
徳川家康の勝利に貢献しますが、
大津城は落城して大きく損傷しました。
※高次は西軍に降伏して剃髪しましたが、
この功によって家康に呼び戻されました。
家康は攻城戦で損傷した大津城を廃城とし、
新たに天下普請として膳所城を築城。
大津城本丸跡地に大津代官所を設置し、
大久保長安が大津代官に任命されています。
その後は大津百艘船の本拠が置かれ、
幕府や諸藩の蔵屋敷が建てられて、
物流の拠点として栄えました
「大津城跡」碑。
京阪ひわ湖浜大津駅北側から出て、
歩道橋を渡った広場が大津城の本丸あたり。
遺構は何も残されてはいませんが、
歩道橋を降りると跡碑があります。
「大津城縄張推定復元図」。
大津城跡はひわ湖浜大津駅周辺。
完全に埋め立てられて何も残っていません。
市街の中心ですので仕方ないですね。
大津代官は享保7年(1722)に廃止され、
京都町奉行に統合されましたが、
明和9年(1771)に復活。
石原清左衞門が代官に任命され、
その後は石原家が世襲して数代続き、
都築金三郎、多羅尾久右衞門を経て、
再び石原家が代官に就任しています。
最後の大津代官は石原清一郎で、
維新後に大津代官所は廃止され、
新たに大津裁判所が設置されますが、
※現在の裁判を行う司法裁判所ではなく、
行政を司る役所でした。
同年に大津県が発足し、
石原邸を県庁としました。
その後、県庁は本福寺、上百石町、
市民会議所、顕証寺、園城寺と、
移転を繰り返していますが、
大津県は第1次府県統合において、
近江国南部5郡の殆どを管轄する県となり、
明治5年に滋賀県に改称されました。
完全に埋め立てられているとしましたが、
市内には僅かに石垣が残っているようです。
琵琶湖には多くの城があったようですが、
彦根城以外の城は残っておらず、
誠に残念な限りです。
■関連記事■
・滋賀県大津市 膳所城跡
近隣にあった膳所藩本多家の居城跡。
・奈良県五條市 五條代官所跡
五條天領を支配する幕府代官所。
・京都市伏見区 伏見奉行所跡
伏見市街と周辺天領を支配する奉行所。