三重県鳥羽市 常安寺

常安寺鳥羽藩初代藩主家の九鬼家
最後の藩主家稲垣家の墓所。
はじめ大福寺という真言宗の寺でしたが、
九鬼嘉隆によって曹洞宗に改められました。
しかし嘉隆は関ケ原の戦い西軍に属し、
家臣に即されて自害してしまう。
次男の九鬼守隆は父嘉隆の菩提を弔う為、
大福寺を大改修し寺名を常安寺に改称。
常安寺は九鬼家に庇護されています。

しかし守隆の死後にお家騒動が勃発。
九鬼家が鳥羽を離れる事になると、
享保10年に稲垣昭賢が入封するまで、
鳥羽は領主が激しく入れ替わりました。


常安寺」。
左の薬師堂は当時の本堂だったという。
常安寺は明治天皇御在所にもなっており、
明治天皇は奥書院に宿泊したようです。


本堂」。
文政9年(1812)改築の本堂。
常安寺は志摩国第一の巨刹であり、
志摩国諸宗の触頭でもあったようです。


九鬼家廟所」。
裏手にある九鬼家の廟所。
九鬼家は守隆の死後に五男九鬼久隆と、
三男九鬼隆季が家督を争った為、
幕府によって転封させられる事となり、
久隆が三田藩へ、隆季が綾部藩へ移り、
※宗家は三田藩に定められました。
九鬼家は鳥羽の地を離れます。
守隆は常安寺での供養を遺言していた為、
隆季は綾部藩に移った後も供養を続け、
散在する墓石を現在の形に整備しました。
中央の五輪塔が8代当主九鬼嘉隆、
左に12代九鬼守隆(鳥羽藩初代)とその室、
10代九鬼澄隆、3代次男九鬼隆良
11代九鬼泰隆
右に綾部藩初代九鬼隆季、
12代次男九鬼貞隆、9代九鬼浄隆
5代九鬼定隆、3代九鬼隆次

そして常安寺には稲垣家の墓所もあります。

徳巌院殿従五位下前備州太守
 義運全忠大居士」。
稲垣宗家9代当主、
鳥羽藩6代藩主稲垣長明の墓。
最も長い期間鳥羽藩を治めた稲垣家ですが、
その歴代墓所は伊勢崎天増寺にあり、
藩主が鳥羽領内で死去しても、
旧領の伊勢崎に運ばれていました。
幕末の激動期の藩主である長明は、
幕府を補佐して数度の出兵をしており、
第二次長州征伐でも自ら大坂に出陣。
しかし病に倒れて鳥羽に帰国し、
そのまま死去してしまいます。
本来ならば伊勢崎に送られるところですが、
不穏な状況でそれが叶わず、
鳥羽に埋葬される事となりました。
しかし菩提寺の金胎寺には場所が無い為、
志摩国一の巨刹常安寺が墓所に選ばれ、
ここに埋葬される事となります。


聖徳院殿賢巌義忠大居士」。
稲垣宗家10代当主、
鳥羽藩7代藩主稲垣長行の墓。
長行は長明の長男として生まれ、
父の死去により家督を継ぎますが、
鳥羽伏見の戦い旧幕軍として参加。
この為に賊軍となってしまいます。
長行は伊勢亀山藩を通じて新政府に謝罪し、
1万5千両の献金で許されていますが、
長行も隠居しています。
これがストレスとなったのか同年死去。
父と同じく伊勢崎には送られず、
ここに葬られました。


信徳院泰巌長敬大居士」。
稲垣宗家11代当主、
鳥羽藩8代藩主稲垣長敬の墓。
兄の隠居により家督を相続し、
最後の藩主となり藩知事を経て免官。
華族令によって子爵を叙爵されました。
晩年は鳥羽で暮らして大正9年に死去。

後に伊勢崎の天増寺は、
これらの墓の改葬を申し出ますが、
常安寺はこれを断ったそうです。

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