大名となって伊勢崎藩を立藩した稲垣家は、
2代稲垣重綱が大坂の陣の活躍で加増され、
伊勢崎藩を立藩していますが、
次代稲垣重綱は藤井藩2万石に加増され、
後に三条藩、刈谷藩と移っています。
重綱の孫稲垣重富の代には、
大多喜藩へ加増転封が決まりますが、
城地が狭いという理由で、
烏山藩へ転封先が変更されました。
次代稲垣昭賢も加増されて鳥羽藩に移り、
以後は鳥羽藩の藩主家として8代続き、
稲垣家は廃藩置県を迎えます。
このように稲垣藩は転封を重ねていますが、
歴代墓所は初代の眠る天増寺に置かれ、
遺骸を遠方より運んで埋葬したようです。
「山門」。
極彩色豊かな山門は嘉永5年再建のもので、
平成10年に改修が行われたようです。
「本堂」。
天増寺は慶長8年(1603)に、
初代稲垣長茂によって創建され、
長茂の守り本尊千手観音像を安置。
境内には創建よりも古い宝塔や墓もあり、
天増寺の前に何らかの寺院が、
ここにあったものと考えられています。
「稲垣家墓所」。
天増寺墓地内にある稲垣家墓所は、
塀などで区切られてはおらず、
他の墓に混じるようにありますが、
殆どを網羅する歴代の墓所ですので、
塀など無くても十分に威厳があります。
北側と西側にL字に並ぶ前列の宝珠院塔。
右手前より、
「実相院殿」長茂の次男稲垣則茂。
※長岡藩筆頭家老稲垣平助家初代当主。
「洞源院殿」重綱の長男稲垣重昌。
「天増院殿」伊勢崎藩初代稲垣長茂。
※宗家初代当主。
「久應院殿」伊勢崎藩初代稲垣長茂室。
「法性院殿」伊勢崎藩2代/藤井/三条/
刈谷藩初代稲垣重綱。
※宗家2代当主。
「洞仙院殿」長茂三男稲垣重太。
※山上藩藩祖。
「桊昌院殿」山上藩初代稲垣重定。
「陽光院殿」山上藩初代稲垣重定室。
「芳巖院殿」山上藩2代稲垣重房。
「翠峰院殿」山上藩3代稲垣定享。
「香林院殿/栄松院殿」
山上藩4代稲垣定計及びその正室。
「桃石院殿」山上藩5代稲垣定淳。
「楳翁院殿」山上藩6代稲垣定成。
長茂の三男重太は旗本として別家を立て、
次代重定が加増されて山上藩を立藩。
宗家と同様に天増寺を墓所としました。
7、8代も墓所は天増寺とのことですが、
墓が探しても見当たらないので、
稲垣家霊塔に合葬されているのでしょう。
※9代稲垣太祥は東京都文京区の吉祥寺。
西側2列目。右手奥から、
「寂照院殿」刈谷藩2代稲垣重昭。
※宗家3代当主。
「清光院殿」刈谷藩3代/
鳥山藩初代稲垣重富。
※宗家4代当主。
「桊政院殿」鳥山藩2代/
鳥羽藩初代稲垣昭賢。
※宗家5代当主。
「高陽院殿/光照院殿」
鳥羽藩2代稲垣昭央及び正室。
※宗家6代当主。
「霊鷲院殿」鳥羽藩4代稲垣長続。
※宗家8代当主。
刈谷藩、鳥山藩を経て鳥羽藩に定着しても、
墓所は変わらず天増寺とされています。
西側後列。
右手奥から、
「太玄院殿/春台院殿」
鳥羽藩3代稲垣長以及び正室
※宗家7代当主。
「大応院殿/常全院殿」
鳥羽藩5代稲垣長剛
※宗家8代当主。
「徳巌院殿」鳥羽藩6代稲垣長明。
※宗家9代当主。
6代稲垣長明の時代に幕末を迎え、
藩領が太平洋に面する鳥羽藩は、
海防への関心が強く沿岸警備に努めます。
京都警備や長州征伐にも藩兵を派遣し、
第二次長州征伐で長明は大坂に赴きますが、
病に伏して動けずに休戦となり、
鳥羽に戻っていますが程なく死去。
死去したのが幕末の激動期であった為か、
遺骸は伊勢崎には運ばれず、
鳥羽領内の常安寺に葬られており、
こちらは遺髪墓となっています。
長明の跡を継いだ7代稲垣長行は、
佐幕派として鳥羽伏見の戦いに参加。
敗れて鳥羽藩は朝敵となりますが、
伊勢亀山藩の仲介で謝罪しました。
長行は謝罪と共に隠居して、
弟の稲垣長敬が8代藩主となりますが、
長行は明治元年に死去しています。
6代に続き7、8代も伊勢崎には運ばれず、
同じく常安寺にて葬られていますが、
後に天増寺が改葬する旨を申し出た際には、
常安寺側が断ったとのことです。
■関連記事■
・群馬県伊勢崎市 伊勢崎陣屋跡
稲垣家最初の藩庁跡。
・三重県鳥羽市 鳥羽城跡
鳥羽藩稲垣宗家の居城跡。
・三重県鳥羽市 常安寺
稲垣宗家6~8代の墓所。