前橋城の築城は15世紀末とされますが、
正確な事についてはよくわかっていません。
当初は厩橋城と呼ばれていたようで、
長野氏の居城だったとのこと。
戦国期には上杉謙信の関東進出拠点となり、
上杉家家臣北条高広が城主となっています。
謙信死後の御館の乱に敗れた高広は、
武田家を経て織田信長に下りますが、
本能寺の変が起きて信長が倒れると、
関東は後北条家の支配下となっており、
高広は一時後北条家の軍門に下りますが、
真田家と共に離反して上杉家に帰参。
これに対して後北条家は厩橋城を攻め、
厩橋城は落城しています。
豊臣秀吉の小田原征伐で後北条家は滅び、
徳川家康が三河より関東に転封すると、
平岩親吉が厩橋城の城主となり、
関ケ原後は酒井雅楽頭宗家が厩橋城に入り、
厩橋城は天守を持つ近世城郭に改修され、
厩橋藩3万3000石の藩庁となり、
後に厩橋から前橋に地名が改められます。
※後に加増で15万石となりました。
酒井雅楽頭宗家の治世が9代続いた後、
姫路藩に同石高で転封。
代わって越前松平家の松平朝矩が、
姫路藩より前橋藩に入封しました。
しかし酒井家時代より前橋城は、
利根川の浸食に侵されいたようで、
本丸までもが水に浸かるに及び、
朝矩は前橋城を破棄。
領内の川越城に藩庁を移してしまい、
前橋城は廃城となります。
以後は川越藩として7代続き、
文久3年に川越藩は前橋城を新たに築城。
慶応3年に完成して藩庁を前橋城を戻し、
前橋藩が再興されました。
「群馬県庁(本丸跡)」。
前橋城の本丸跡は群馬県庁の敷地。
幕末に再建された前橋城は、
旧前橋城の三ノ丸跡を本丸とし、
藩主居館の本丸御殿が建てられました。
旧前橋城本丸は利根川の激流で削られ、
再建時には川の一部となっていたようです。
県庁北側の群馬県警察本部を囲むように、
前橋城の土塁が残っています。
「前橋城址之碑」。
土塁を登ると跡碑が建てられています。
最近は東北の城を訪問する事が多く、
あまり違和感を感じなかったのですが、
よく考えたら前橋城は土塁の城。
旧城は利根川にやられているので、
石垣の城が良いような気もしますが、
時間と予算の関係もあるのでしょう。
前橋城は廃藩後に県庁が置かれた為、
県の中心地として発展していますので、
開発が進んで遺構は殆どありません。
「前橋公園」。
市民憩いの場である前橋公園は、
前橋城の北郭のあったあたり。
園内に楫取素彦の碑や銅像があります。
「舊群馬県令楫取君功徳之碑」。
初代群馬県令楫取素彦の功徳碑。
楫取は元長州藩士で旧名は小田村伊之助。
史上最悪の大河ドラマ花燃ゆにおいて、
綺羅星の如く居並ぶ長州志士を差し置いて、
維新を一人で成し遂げたように描かれ、
吉田松陰との関係が勘違いされがちですが、
彼は志士ではなく優秀な行政官でした。
維新後は一旦隠棲していましたが、
政府の要請で出仕し足柄県参事を経て、
熊谷権令に就任。
後に新設された群馬県初代県令となります。
教育の振興や製糸業の発展に功績があり、
県庁を高崎から前橋に移転させました。
「宮崎有敬翁紀功之碑」。
初代群馬県会議長宮崎有敬の紀功碑。
伊勢崎藩御用商人宮崎有成の子で、
藩に農兵制度や義倉の設置を求めた他、
生糸の改良等も藩財政を潤わせましたが、
勤皇活動を疑われて一時幽閉されています。
維新後は大蔵省や内務省役人を経て、
群馬県の製糸業の発展に尽力しました。
明治12年に初代県議会議長となった他、
上毛繭絲改良会社、伊勢崎太織会社を設立。
楫取は群馬県令として赴任した際、
「この地で最も優れた人物は誰か」と質問。
これに皆が宮崎翁と答えたという。
碑は楫取の撰文によるもの。
「楫取素彦と松陰の短刀」銅像。
日本の生糸の直輸出を成功させて、
品質を世界にアピールさせた新井領一郎。
彼は楫取の推薦で米国商法実習生に選ばれ、
渡航前に楫取素彦夫妻を訪ねていますが、
その際に楫取の妻寿子から、
松陰の形見の短刀を渡されてました。
この銅像は兄星野長太郎と共に楫取を訪れ、
短刀を受け取るシーンを再現したもの。
この短刀はカリフォルニアに現存。
「前橋東照宮」。
前橋公園内にある徳川家康を祀る神社。
藩祖松平直基が勝山藩領に創建した神社で、
直基系越前松平家の転封に伴い遷座し、
川越城に藩庁を移した際は、
川越に社殿が造営されて幕末に至ります。
そして前橋城の復興で藩庁が再び移ると、
社殿は解体されて現在地に移築されました。
「厩橋護国神社」。
前橋東照宮の敷地内にある厩橋護国神社。
西南戦争で戦死した前橋出身者を祀る為、
創建された厩橋招魂社が前身とのこと。
以降大東亜戦争に至る英霊2346柱が、
ここに合祀しています。
国の為に死んだ地元の若者達を、
永久に祀ろうと護国神社がある訳ですが、
この考え自体が全国で賛同を得ただけで、
長州藩やその関係者が関わっていません。
これらは地元民の崇高な志で創建され、
それぞれの社が地元の英霊を祀っています。
社名が旧地名の厩橋が使用されており、
厩橋から前橋に地名が変更された後も、
ある程度は名が残っていた模様。
遺構の少ない前橋城ですが、
市内中心部に石垣が残されています。
「車橋門跡」。
車橋門は外曲輪から城内に至る重要な門で、
酒井家前橋藩時代に冠木門から、
渡櫓門に改築されたものとのこと。
その後に越前松平家が前橋城を破棄し、
藩庁を移した後も存続していたという。
新前橋城再建の際は大手筋の門となり、
特に重要な門であったとされています。
幕末の前橋藩主松平直克は、
宗家松平春嶽も辞任した政事総裁職に就任。
将軍徳川家茂と共に上京し、
朝廷との折衝にあたってます。
しかし横浜港鎖港政策を推進し、
天狗党の乱鎮圧を反対した為に罷免され、
以後は幕政には関与していません。
直克は前橋商人の強い要請で、
前橋城を再建して藩庁を移転させますが、
僅か1年後に明治維新となっています。
この状況に佐幕的な江戸詰藩士らは、
上総の飛地富津陣屋に移動。
※藩主直克は京都に在中。
旧幕府軍が陣屋の引き渡しを要求し、
家老小河原政徳がこれに応じました。
小河原はその責任を取って自刃し、
跡を白井宣左衛門に任せていますが、
その際に脱走扱いで歩卒20名を提供し、
大砲、小銃、金千両、糧米等を贈った為、
旧幕府への内通を疑われる結果となり、
白井も切腹を申しつけられています。
国許の藩兵は新政府軍に組み込まれ、
周辺諸藩と共に越後へ出兵。
国見峠の戦いで会津藩と戦火を交えました。
前橋城は幕末に再建された城で、
稜堡式の曲輪も設けられたという。
開発で遺構が無いのは非常に残念ですが、
土塁の城であった為に築城も早く、
その分破壊も容易であったようです。
【川越藩→前橋藩】
藩庁:川越城→前橋城
藩主家:直基流越前松平家(前橋松平家)
分類:17万石、譜代大名
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