鳥羽城は鳥羽湾に突出する樋の山に築城され、
九鬼水軍の本拠地となっていました。
典型的な海城とされており、
面白いのが海側が大手となっており、
陸側が搦手となっているところ。
普通は陸側が大手になるはずですが、
水軍の城だけに海側がメインとなっています。
「三の丸広場」。
三ノ丸のあった場所。
現在は城跡の玄関口として整備され、
枡形風に石垣が積まれています。
三の丸広場から登城すると、
段々畑のような石垣があります。
・・が、これは当時のものではなく、
土砂崩れを防ぐために整備されたもの。
はじめ見た時は[これは珍しい!]と、
驚いたのですけどね。
でも石はもしかしたら石垣だったものかも?
「二ノ丸跡」。
振り返ると近鉄線の線路、国道42号線、
そして鳥羽水族館が見えます。
このあたりに二ノ丸や大手水門があり、
政庁である二ノ丸御殿が建てられていました。
「城山公園」。
石段を登ると広場となっており、
広い曲輪となっていたようですが、
特に名称はないようです。
当時は太鼓櫓が建っていましたが、
今はなんだか電気製品のロゴのような、
TOBAのモニュメントが建てられています。
城山公園から本丸跡へ。
当時の石垣が残っています。
「鷹羽龍年の鳥羽城詩碑」。
鷹羽龍年は伊勢国山田出身の儒学者。
江戸で儒学者林檉宇らに学び、
菊池五山や大窪詩仏らと交友しました。
後に6代藩主稲垣長明に招かれ、
藩校尚志館の教授となっており、
慶応2年に死去しています。
この詩碑は鳥羽城を称えたものという。
「本丸石垣」。
鳥羽城の中でも本丸の石垣が良好に残る場所。
「本丸跡」。
本丸はかなり広いスペース。
3層天守と本丸御殿があったようですが、
廃城後は小学校の運動場となっており、
平たく整地が成されたようです。
本丸跡から望む鳥羽湾。
手前の島はミキモト真珠島(相島)で、
その向こうの島は菅島。
左側の遥か向こうに見えるのが答志島。
本丸跡と出て市役所側へ。
「家老屋敷跡」。
家老屋敷のあった場所で、
ここも石垣が状態よく残っています。
家老屋敷跡は鳥羽幼稚園だったようですが、
現在は廃園となっている模様。
こういうの見ると切ないですね。
そのまま下りて北側へ。
「相橋」。
城外の武家屋敷から登城する武士らが、
通常に使用したとされる橋で、
城の陸側の玄関口でした。
この橋の架かる妙慶川は、
古来志摩国と伊勢国の国境だったという。
織田信長に仕えて毛利水軍を破った九鬼嘉隆は、
本能寺の変の後は織田信雄に仕えましたが、
小牧長久手の戦いの際に羽柴秀吉に臣従。
信長同様に秀吉にも水軍頭領として重宝され、
鳥羽城を築城して本拠とします。
秀吉の死後に起こった関ケ原の戦いでは、
嘉隆が西軍、子の九鬼守隆が東軍となり、
父子が分かれる事になりました。
関ケ原本戦が東軍の勝利に決すると、
守隆は徳川家康に父の助命を嘆願。
これが家康に認められた為に、
身を隠している嘉隆に使者が送られます。
一方、鳥羽城留守居役豊田五郎右衛門は、
九鬼家存続の為には嘉隆の首を、
家康に差し出す事しかないと考え、
嘉隆に対して自害を即した為に、
これを受け入れて嘉隆は切腹。
その首は伏見城の家康の許へ送られる途中、
守隆の派遣した使者と伊勢国明星で出会います。
嘉隆の死が守隆に報じられると、
守隆は激怒して豊田を鋸挽きで処刑。
深く悲しんで嘉隆の菩提を手厚弔いました。
守隆は鳥羽藩初代藩主となり、
大坂の陣でも水軍を率いて参戦。
志摩国答志郡など5万6000石を領します。
しかし守隆の死後にお家騒動が勃発し、
五男九鬼久隆と三男九鬼隆季が家督を争い、
双方鳥羽の地を離れる事になります。
※幕府の裁定により久隆に家督相続が認められ、
三田藩に3万6000石で転封。
隆季にも新たに2万石が与えられ、
綾部藩を立藩しています。
鳥羽には内藤忠重が3万5000石で入封。
内藤家は3代続いていますが、
3代内藤忠勝が宮津藩の永井尚長を殺害し、
これによって切腹となって改易。
その後は土井利益、松平乗邑、板倉重治、
松平光慈と譜代大名が入れ替わり、
稲垣昭賢入封してようやく藩主家が定着し、
以後は廃藩まで8代続きました。
稲垣家は譜代として幕府を補佐し、
幕末には数度の派兵を行っており、
鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍として参加。
この為に朝敵となってしまいますが、
1万5000両の献金で許されています。
■関連記事■
・群馬県伊勢崎市 天増寺/稲垣家墓所
鳥羽藩稲垣家の歴代墓所。
・三重県鳥羽市 常安寺
稲垣家及び九鬼家の墓所。
・群馬県伊勢崎市 伊勢崎陣屋跡
稲垣家最初の藩庁跡。
・京都府綾部市 綾部陣屋跡
綾部藩九鬼家の陣屋跡。