慶田寺は15世紀の創建とされ、
芝村藩織田家菩提寺となった曹洞宗の寺院。
「山門」。
山門は芝村陣屋南門を移築したもの。
正面は水田となっていますが、
それが堀の様な感じになっており、
参道はその水田を迂回しています。
「本堂」。
慶田寺は十一面観音菩薩立像が有名で、
ほほえみの観音様と呼ばれています。
拝観には事前連絡が必要のようですが、
今回のお目当ては織田家墓所ですので、
拝観はしていません。
「織田家墓所」。
裏手の墓地にある織田家の墓所。
綺麗に整備されています。
立札も建てられていてどれが誰の墓か、
すぐにわかるのが良いですね。
「正傳院殿如庵有楽大居士」。
織田信長の弟織田有楽斎の墓。
茶の湯に秀て茶道有楽流を創始。
関ヶ原の戦いでは東軍に属しますが、
戦後は徳川家康に仕えずに豊臣家に仕え、
大坂城で豊臣秀頼を補佐しました。
大坂冬の陣でも大坂城内で戦い、
大野治長と共に和睦に尽力しましたが、
夏の陣前に大坂城を離れて京都に隠棲。
3万石の所領を四男の長政と、
五男の織田尚長に1万石ずつ分与し、
自らは1万石を隠居領としました。
この長政と尚長の系譜が続き、
芝村藩織田家と柳本藩織田家になります。
同じように柳本藩織田家の墓所にも、
無縫塔の墓がありますが、
実際に有楽斎が葬られているのは、
京都の正伝永源院との事。
「初代織田長政公之墓」。
※戒名が読み取れませんでした。
初代藩主織田長政の墓。
有楽斎の四男で父より1万石を分与され、
戒重村に陣屋を開いて戒重藩を立藩。
藩政の基礎を造り上げました。
「二代織田長定公之墓」。
※同じく読み取れず。以下同じ。
2代藩主織田長定の墓。
初代長政の長男として生まれ、
父の隠居によって家督を相続します。
13年の治世の後に死去。
「三代織田長明公之墓」。
3代藩主織田長明の墓。
2代長定の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しますが、
生来病弱だった為に早々に養子縁組を進め、
宇陀松山藩より織田長清を養嫡子に貰い、
隠居して国許で余生を過ごしました。
「四代織田長清公之墓」。
4代藩主織田長清の墓。
宇陀松山藩3代織田長頼の三男に生まれ、
戒重藩3代長明の養子となり、
長明の隠居に伴い家督を相続しました。
藩校遷喬館を設立して藩士に文武を奨励。
陣屋を戒重村から岩田村に移す事を計画し、
※岩田村は芝村に改称されます。
幕府の許可を得ましたが、
財政難によって延期するに至り、
存命中に移転する事は出来ませんでした。
7代織田輔宜の時代に、
陣屋が芝村に移転される事となり、
幕府領の預かりも命じられています。
8代織田長教の代に預地は9万石となり、
その経営も順調でしたが、
一揆が発生し後に役人の不正が発覚。
預かり地はすべて没収されてしまいます。
「九代織田長宇公之墓」。
9代藩主織田長宇の墓。
8代長教の長男として生まれ、
父の隠居により家督を相続しますが、
預地の没収などで藩財政は悪化しており、
改革を行うも効果はありませんでした。
「従五位織田平長猷墳」。
12代当主織田長猷の墓。
11代織田長易の長男として生まれ、
廃藩置県後の明治6年に家督を相続。
広瀬神社の宮司を務めていますが、
僅かな期間で病死しています。
他の藩主の墓所は江戸の泉岳寺や重秀寺。
江戸で死去した藩主が葬られています。
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