専行院の正確な由緒は不明ですが、
室町時代末期の開山であるという。
柳本に織田有楽斎の五男織田尚長が入封し、
柳本藩織田家の菩提寺となっています。
「本堂」。
毎年7月第二日曜日に藩主祭が催され、
東京から織田家当主を招き、
報恩感謝の法要が行われているという。
「修陵餘潤之碑」。
崇神天皇陵の修陵は柳本藩が担当。
柳本村をはじめ全領民が工事に参加し、
大規模な周濠が築かれると共に、
その陵水の利用が許可される事となり、
農業用水として利用されています。
この碑はこれを記念した碑。
本堂の右側に織田家の墓所があります。
「織田有楽斎の墓(たぶん)」。
文字が風化して読めないのですが、
なんとなく正傳院殿と読めます。
※有楽斎の戒名は正傳院殿如庵有楽大居士。
「祥光院殿椿岑宗久居士
光曜院殿密譽珽典貞照大姉」。
4代藩主織田秀親と正室光曜院の墓。
秀親は5代将軍徳川綱吉の葬儀で
大准后使の饗応役を務めますが、
中宮使饗応役の前田利昌と仲が悪く、
※利昌は大聖寺新田藩2代藩主。
秀親が利昌に嫌がらせを行った為、
秀親は寛永寺で利昌に殺害されています。
秀親を殺害した利昌は切腹を命じられ、
大聖寺新田藩は改易処分。
柳本藩は秀親の弟織田成純が継ぎました。
主君を殺された柳本藩ですが、
利昌は切腹して藩も断絶していますし、
藩にお咎めもなかったので、
穏便に済ませているようです。
「巌光院殿前豫州太守本照宗然居士」。
6代藩主織田秀行の墓。
4代秀親の四男として生まれ、
叔父の5代成純の養嫡子となり、
成純の隠居によって家督を継ぎますが、
僅か2年で病死しています。
「峯徳院殿前野州太守普光宗智大居士」。
7代藩主織田信方の墓。
秀行の急死で末期養子となり家督を相続。
※信方は織田信雄系の分家の出で、
有楽斎の系譜ではありません。
15年の治世の後に病死しており、
長男の織田秀賢が跡を継ぎました。
「恭信院殿」。
11代藩主織田信陽の墓。
10代織田秀綿の七男として生まれ、
父秀綿の死去に伴い家督を相続。
藩士の人員整理や知行削減を行い、
身分にとらわれず能力で登用するなど、
積極的に藩政改革を行いました。
嘉永5年に無城から城主格に昇進し、
柳本藩織田家の家格は上昇。
この為に負担も増えています。
安政4年に死去。
他の藩主の墓は東京の祥雲寺にありましたが、
現在は失われている模様です。
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