近松寺は鎌倉時代の創建とされ、
戦国時代に波多守親が再興していましたが、
兵火で伽羅を焼かれた後に、
唐津に入封した寺沢広高が再び再興し、
寺沢家の菩提寺となりました。
しかし次代寺沢堅高が島原の乱の責で自害。
寺沢家は断絶した為に寺運が衰退します。
これを憂いた四世遠室明超は、
3代将軍徳川家光に隆盛を懇請し、
百石の御朱印を得ることに成功します。
以後は唐津に入った各藩主家にも帰依され、
最後に入封した府中小笠原家からも、
百石を寄進され菩提寺に定められました。
「山門」。
名護屋城の城門を移築したとされる山門。
朝鮮出兵の際に築城された名護屋城は、
豊臣秀吉の死後に廃城となり、
寺沢広高によって唐津城の部材に使われ、
その一部の城門が近松寺に移築されました。
「本堂(法皇殿)」。
慶長3年(1598)再建の本堂。
本尊は釈迦牟尼仏。
浄瑠璃作者として知られる近松門左衛門は、
近松寺の小僧であったとされ、
遍俗した際に寺名を姓に用いたようです。
※諸説あり。
藩主家資料を展示する小笠原記念館裏手に、
小笠原家等の墓地があります。
「近松門左衛門墓」。
墓地中央にある近松門左衛門の墓。
近松門左衛門は曽根崎心中や国性爺合戦、
女殺油地獄など時代物、世話物を脚本し、
劇作家として輝かしい業績を残しています。
この墓は死後7ヶ月後に建立されたもので、
一応本墓は大阪の法妙寺跡とされますが、
もしかすると分骨等は納められているかも?
「孤峯院殿白室宗不大居士」。
唐津藩寺沢家2代寺沢堅高の墓。
初代広高の次男で父の死後に家督を相続。
飛地天草でキリシタンを弾圧していますが、
天草四郎を大将とした切支丹一揆が発生し、
これが島原にも飛び火する事となり、
最大規模の反乱へと発展してしまいます。
これに幕府は12万の兵力を動員させ、
一揆勢を全滅させるに至りますが、
島原藩藩主松倉勝家はこの責で斬首となり、
堅高も天草領を没収されました。
勝家よりも軽い処分で済んだものの、
面目を失って恥を晒す事となり、
失意のうちに自害しています。
これにより寺沢家は無嫡断絶となりました。
「祥鳳院殿前佐州太守瑞巖崇輝大居士」。
唐津藩小笠原家4代藩主小笠原長和の墓。
郡山藩4代柳沢保泰の九男に生まれ、
3代小笠原長会の養子となり家督を相続。
天保の大飢饉では領民救済に尽力しますが、
庄屋の不正を訴える一揆も発生し、
佐賀藩と共にこれを鎮圧しました。
失意の為か同年に20歳で病死しています。
「小笠原胖之助之墓」。
箱館新選組差図役三好胖の墓。
2代藩主小笠原長泰の四男として生まれ、
5代継嗣の小笠原長行に養育されており、
後に彰義隊に従者9名と共に入隊しました。
上野戦争後は榎本艦隊と江戸を脱出。
会津でも新政府軍と戦っており、
会津戦争終結後は蝦夷へ向かい、
箱館新選組に加盟していますが、
箱館戦争初戦峠下の戦いで戦死しています。
本名は小笠原胖之助。
「前場行景翁墓」。
唐津藩家老前場幸右衛門の子で、
家督を継いだ後に家老となりました。
小笠原胖之助と共に戊辰戦争を転戦し、
会津で小笠原長行と合流。
蝦夷で箱館新選組の一員となりますが、
新選組を離れて小笠原長行に近習し、
長行と共に箱館戦争前に脱出して、
東京の湯島界隈に潜伏しています。
明治5年に自首しますが放免され、
小笠原家の家令となった後、
小学校教師となって教壇に立っており、
明治38年に死去しました。
他の藩主墓所は東京都文京区の龍光寺。
長行は世田谷区の幸龍寺に葬られています。
※累代墓。
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