山口県長門市 仙崎湊

仙崎日本海に突き出した比較的大きな岬。
海流によって運ばれた漂砂が堆積した砂嘴で、
その殆どが平坦な地形となっており、
古くから漁村、港町として栄えていました。


御国廻御行程記 仙崎」。
絵図でもわかるように仙崎一面に家屋が建ち、
相当の賑わいであったと推測できます。


仙崎港」。
仙崎漁港下関漁港に次ぐ水揚高を誇り、
特に仙崎イカウニが名物。
また青海島を遊覧する観光船も出ており、
観光客を楽しませてくれます。


童謡詩人 金子みすゞ之像(左)」、
大漁(右)」歌碑。
童謡詩人であった金子みすゞは仙崎の出身。
 みんなちがって、みんないい。
 こだまでせうか、いいえ、誰でも。
など、
聞いた事のあるこのフレーズは彼女の作品です。
  大 漁
 朝やけ小やけだ 大漁だ  
 大ばいわしの 大漁だ
 はまは祭りの ようだけど
 海のなかでは 何万の
 いわしのとむらい するだろう

みすゞの死後に岩波文庫[日本童謡集]に、
この[大漁]の詩が掲載されて以降、
児童文学作家矢崎節夫らが遺稿集を発掘し、
全国的に知られるようになったという。

実は僕は彼女の詩が嫌い。
これは感性に合わないだけですので、
彼女を否定する訳ではありません。
上記[大漁]のようにハッとさせられる詩は、
余りにも心に響きすぎる為、
僕にはどうしても受け入れられないのです。


仙崎みすゞ通り」。
JR仙崎駅から北へ真っすぐ伸びる通り。
仙崎のメインストリートで、
古い家屋が多く残されています。


金子みすゞ記念館」。
平成15年にオープンした記念館で、
金子みすゞの生家金子文英堂の跡地に、
建物や庭を当時の資料をもとに復元し、
その奥に遺品などを展示する本館棟があります。

みすゞはペンネームであり本名はテル
※以下はみすゞで統一。
両親と兄、弟の5人家族で暮らしていましたが、
金子庄之助が親戚の上山文英堂に雇われ、
※母ミチの妹フジの夫上山松蔵が経営。
 後に弟の上山正祐が養子に入る。

清国営口支店の支店長として清国に渡航。
しかし程なく父は営口で病死してしまい、
路頭に迷った金子家は松蔵の後押しで、
大津郡唯一となる書店を開業しました。


みすゞの部屋」。
書店の経営が順調であった為か、
みすゞは女学校に通わせてもらっており、
成績は優秀であったようです。
女学校時代に叔母のフジが死去し、
母のミチが松蔵の後妻となっており、
店主で兄の金子堅助が結婚した事を機に、
みすゞは母が嫁いだ下関の上山文英堂に移住。
20歳まで過ごした生家に別れを告げます。

記念館を出て更に北へ進む。

家々の軒先に詩札が下げられていますが、
これらの詩札は手作りのようで、
みすゞに対しての誇りが感じられます。


金子みすゞ像」。
通りの中程にあるみすゞの銅像で、
平成27年に建立されたもの。
下関に移り住んだみすゞは支店の店番を務め、
その傍らで童謡を書いて雑誌に投稿。
[童話]等の雑誌に掲載されるようになります。
やがてみすゞに結婚話が持ち上がり、
上山文英堂の番頭格宮本啓喜と結婚。
すぐに子供を宿しますが夫婦仲は上手くいかず、
夫は女癖の悪さで上山文英堂を追われ、
自暴自棄となって放蕩を繰り返しました。
挙句に詩の投稿や文通を禁止されており、
離婚の末に娘の親権を奪われたみすゞは、
遺書を残して服毒自殺します。
後にみすゞの童謡が再評価され、
教科書にも採用されるに至りました。
みすゞの死後、娘は祖母に育てられたようで、
現在も存命であるとのこと。

更に北へ。

遍照寺」。
みすゞの墓所として知られる寺院。
明応年間の建立とされますが、
詳しい寺史は火災で焼失しているという。
みすゞの祖母が浄土真宗の信者だったようで、
祖母と幾度となくお参りしたようです。


金子みすゞの墓」。
父金子庄之助、弟上山正祐と共に、
[上山ミチ娘金子テル子]とあります。

更に北へ。
通りの突き当りが渡船場跡

向岸は青海島。
僅か100m程度でしょうか?
現在は橋が架かった為に渡船は廃止。
渡船場の小さな岸壁が残っています。

仙崎は北前船の寄港地でもあり、
この狭い海峡を北前船が往来。
長州藩船究番所も設置されており、
役人が出向して積荷の取締りが行われました。

吉田松陰北浦巡視の際に仙崎を訪れ、
役人山崎半左衛門の案内により、
祇園社前台場極楽寺後台場を巡視した後、
青海島に向かっています。
※この双方の台場跡の遺構は全く無し。

■関連記事■
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 金子みすゞ顕彰碑が設置されています。
山口県長門市 深川正明市跡
 赤間関街道北浦道筋と北道筋の分岐点。
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 松陰は仙崎を瀬戸崎と記しています。

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