青森宿は奥州街道109番目の宿場町。
弘前藩によって青森湊が開かれて発展し、
津軽九浦のひとつとして発展し、
※青森湊、蟹田湊、鯵ヶ沢湊、深浦湊、
十三湊、今別湊の6つの湊と、
碇ヶ関、大間越、野内の三関所の総称。
幕末期には戸数3000戸に及んだとされ、
弘前藩最大の商業都市であったという。
「青森之図」。
現在の本町が青森宿の中心で、
多くの廻船問屋や豪商が軒を連ね、
善知鳥神社が奥州街道の終点とされ、
※これ以北も奥州街道とも称されますが、
松前街道と別の名称もあります。
当初は浜町、本町、米町だけでしたが、
博労町、多葉香町、塩町、堤川端町、新町、
寺町、鍛治町、大工町などが拡張され、
遊郭街も設けられました。
「青森宿跡」。
青森市街は青森大空襲で破壊されており。
遺構のようなものは完全にありません。
どこを移しても同じようなもので、
散々街並みを撮影していますが、
掲載する写真はかなり悩みました。
「伊能忠敬」説明板。
本町5丁目にある伊能忠敬の説明板で、
伊能は西沢善兵衛宅に宿泊したようですが、
西沢宅がこの場所であったかは不明。
「棟方志功 出生の地」。
世界的に知られる版画家棟方志功の誕生地。
現在はスナックのようですが、
昼間だったので営業しているのかは不明。
「奥州街道終点記念の碑」。
上記の様に青森宿が奥州街道の終点とされ、
その終点は善知鳥神社門前とされます。
「善知鳥神社」。
宗像三女神を祀る神社。
善知鳥安方が小さな祠を建てた事に始まり、
後に坂上田村麻呂が再建しました。
以後は南部家によって崇敬され、
弘前藩領となると津軽家の庇護を受け、
青森の民に篤く信仰されたようです。
「死節碑」。
西南戦争で戦死した青森県民の慰霊碑。
熊本出身の県令山田秀典が招魂祭を実施し、
その功績を永久に伝える為に建立したもの。
撰文は漢学者で編修官だった依田百川で、
この碑は天下の名文と称されたという。
■奥州街道の宿場町
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