青原寺は中野区にある曹洞宗の寺院。
江戸時代には港区青山にあったようですが、
明治42年に現在の地に移転しています。
「本堂」。
太田道灌の師雲岡瞬徳禅師が開山し、
後に龍野藩3代脇坂安清の菩提寺となり、
以降は歴代の墓所となりました。
本堂は空襲により焼失しており、
現在の本堂は昭和46年に再建されたもの。
「子爵脇坂累世家族墓」。
龍野藩脇坂家の累代墓。
移転後に新しく建てられたもので、
法名が側面に刻まれています。
脇坂家は賤ヶ岳七本槍の脇坂安治を祖とし、
安治は貂の皮を馬印として活躍し、
淡路国洲本3万石を与えられました。
賤ケ岳後も小牧長久手の戦い、九州征伐、
小田原征伐、朝鮮の役等、
豊臣秀吉の覇業に貢献しています。
関ケ原の戦いで西軍として従軍するものの、
東軍に寝返って所領を安堵されており、
後に伊予国大洲に加増され大洲藩を立藩。
大坂の陣にも従軍しました。
2代当主脇坂安元は飯田藩に加増転封され、
後に堀田正盛の次男脇坂安政を養子に迎え、
その3代当主安政は龍野藩に移封。
以後は龍野藩として廃藩置県まで続きます。
安政は実家が堀田家であるとして、
幕府に譜代扱いを申告しており、
これが許されて願譜代となりました。
10代(8代藩主)脇坂安董は、
寺社奉行となって谷中延命院一件、
三業惑乱、仙石騒動等、
重大事件を裁いて名を挙げ、
後に正式に譜代大名となりました。
※老中にも昇進しますが在任中に急死。
毒殺説もあるという。
11代(9代藩主)脇坂安宅も老中に昇進。
日米修好通商条約で署名していますが、
井伊直弼の暗殺後に辞任して隠居します。
※後に老中に再任されるもすぐに辞任。
12代(10代藩主)脇坂安斐は、
第一次長州征伐に参加しながらも同情的で、
長州藩の降伏条件遂行は困難と上奏し、
再征にも反対し病気を理由に出兵を辞退。
新政府への恭順もスムーズに行われました。
維新後の華族令において子爵家となり、
貴族制度の廃止で現在に至っています。
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龍野藩藩主脇坂家の居城。
・兵庫県たつの市 小宅寺/龍野藩脇坂家墓所
9代及び10代藩主の墓所。
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藩祖脇坂安治は賤ケ岳の七本槍のひとり。