東京都台東区 谷中霊園/姫路藩酒井家墓所

谷中霊園乙8号の第一立体埋蔵施設横に、
姫路藩酒井家の墓所があります。
姫路藩酒井家は酒井雅楽頭家宗家筋で、
始祖酒井広親の次男酒井家忠の嫡流。
5代酒井正親徳川家康直臣初の城主で、
西尾城の城主となっており、
江戸時代になると川越藩前橋藩を経て、
姫路藩15万石の藩主家となっています。

この姫路藩酒井雅楽頭宗家は、
前橋市の龍海院に6~20代、
豊島区牛込の染井霊園に21、22代、
そしてこの谷中霊園が23~25代及び、
現在の墓所となっています。


酒井家霊龕」。
酒井雅楽頭宗家の合葬碑。
雅楽頭宗家は華族令施行の際、
20代酒井忠顕の正室であった酒井文子が、
繋ぎで24代当主を務めていた為に、
叙爵が分家の4家より遅れており、
伯爵に叙されたのは25代酒井忠興が、
8歳で家督を継いだ後の事でした。
ちなみに最後の大老21代酒井忠績や、
22代酒井忠惇は別家を興して男爵となり、
雅楽頭宗家から外れています。


従四位酒井忠邦墓(左)」、
従四位酒井忠邦夫人鏐子之墓(右)」。
姫路藩10代(23代当主)酒井忠邦と、
正室鏐子の墓。
支藩の伊勢崎藩藩主酒井忠恒の九男で、
9代藩主忠惇が徳川慶喜に従っていた為、
新政府の命によって強制隠居させられ、
忠邦が指名されて家督を継ぎました。
15万両献金と関係者処分で許されて、
版籍奉還によって知藩事となり、
廃藩置県により免官されて東京に移住。
慶應義塾入学を経て米国留学し、
4年間滞米した後に帰国しましたが、
明治12年に病死してしまいました。
当時の正室鏐子は妊娠しており、
後に長男酒井忠興を出産しますが、
家督はその成長まで文子が相続しています。


従三位伯爵酒井忠興墓(中央)」、
伯爵酒井忠興夫人夏子墓(右)」。
25代当主酒井忠興と夫人夏子の墓。
上記のように23代忠邦の死後に生まれ、
家督を繋ぎで文子が継いでおり、
満8歳まで成長を待ってから家督を譲られ、
宗家はやっと伯爵に叙せられました。
東京音楽学校を卒業したようですが、
園芸に興味を持って草花の研究栽培を行い、
特には名品を多く育てたようです。
大正8年、死去。

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