三重県松阪市 樹敬寺/本居宣長墓所

樹敬寺は松阪市新町にある浄土宗の寺院。
本居家の菩提寺であり、
本居宣長とその一族の墓所があります。


樹敬寺」。
荒廃していた鎌倉初期創建の不断念仏院を、
28年間浄財を集めた敬誉上人が復興。
敬誉樹敬上人と呼ばれていたことから、
後に樹敬寺と称したという。


本堂」。
本堂は明治35年に再建されたもの。
樹敬寺は松ヶ島城の城下にありましたが、
蒲生氏郷松坂城を築城すると、
現在地に移築させられました。
歴代城主や紀州藩に庇護されており、
8つの塔頭を擁する大寺院となっています。


樹敬寺墓地」。
樹敬寺の墓地は本堂裏手の道路向かい。


原田二郎翁墓所」。
上記の門を真っ直ぐ進むとあります。
原田二郎は明治-大正期の鴻池財閥の経営者。
紀州藩士原田清一郎の長男に生まれ、
明治8年に大蔵省に出仕しますが、
辞任して第七十四国立銀行の頭取に就任。
明治33年に親戚の伝手で鴻池銀行に入り、
銀行専務理事、鴻池家監督を務め、
最終的に銀行及び家政全般を経営しました。
引退後は慈善事業に尽くしています。

この原田二郎の墓の手前に、
本居家の墓所があります。

高岳院石上道啓居士
 円明院清室恵鏡大姉
」。
本居宣長とその妻の墓。
宣長は木綿問屋小津家の一族に生まれ、
江戸にある小津家の分家を継ぎますが、
商売に関心なく家業をたたみ、
医師を志して京都へ遊学しています。
医学や儒学、漢学、国学等を学び、
先祖の姓である本居を名乗り、
医学と共に国学への造詣を深め、
松坂で医院を開業すると共に、
自宅で源氏物語の講義を行いました。
国学者賀茂真淵に影響を受けて、
日本書紀古事記の研究に没頭。
一時は紀伊藩に仕えてはいますが、
生涯の殆どを庶民の学者として過ごし、
その研究や思想に共感する者も増え、
伊勢や尾張を中心に門人を増やし、
その名声は最終的に全国に及びます。
平田篤胤荷田春満賀茂真淵と共に、
国学の四大人と称されており、
自宅の鈴屋で講義した事から、
鈴屋大人と呼ばれていたという。
宣長は72歳で死去していますが、
自らの葬儀等について詳細に遺言しており、
それに従い山室山の奥墓に葬られました。
この墓は月参墓に定められたもので、
宣長の遺髪が納められたもの。


明章院通言道永居士
 雅静院淑和慧厚大姉
」。
宣長の長男本居春庭と妻壱岐の墓。
幼少より宣長に教育を受けますが、
眼病を患って失明
家督は門人で養子の本居大平が相続します。
大平は紀州藩に仕えて和歌山に移住し、
和歌山本居家となって続きますが、
春庭は失明後も研究を続けて門人を増やし、
和歌山本居家とは別に、
松坂本居家として続きました。

墓所にはこの二組の他にも、
その後の松坂本居家や、
祖先の小津分家の墓26基があります。

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