長崎県南島原市 原城跡

吉田松陰九州遊学の際、
原城跡を訪問しています。
原城は島原の乱の籠城戦が行われた城で、
両軍で4万の死者を出す激戦が行われ、
一揆勢の皆殺しで終結した戦いでした。
山鹿流兵学師範であった松陰は、
古戦場を見学する事で、
自らの兵学の糧にしたのでしょう。

島原天草の乱は江戸時代初期の反乱で、
キリシタン弾圧に起因した一揆で、
幕末以前で最後の本格的な内戦でした。
島原藩主松倉勝家が過酷な年貢徴収を行い、
キリシタンへの厳しい弾圧を行った事から、
島原の領民が旧有馬家家臣らと一揆を計画。
一方で天草でも小西行長加藤忠広等、
改易された大名の旧家臣らが反乱を計画し、
これらが湯島において会談を行い、
天草四郎時貞を総大将に決起します。
島原の一揆軍は島原城を攻撃し、
籠城により落城は断念するものの、
島原半島で勢力を拡大。
一方で天草の一揆軍も富岡城を攻撃し、
落城寸前まで追い込んだものの、
討伐軍の到着の知らせで攻撃を断念し、
島原に渡って島原の一揆軍と合流しました。
合流した一揆軍は原城に立て籠もり、
これを幕府の討伐軍が包囲。
そして原城籠城戦が開始されます。


大手門跡」。
原城の大手門は海側にあったようで、
宿泊した原城温泉真砂の程近くでした。
現在は車道の坂道となっていますが、
当時は石段だったようです。


三ノ丸跡」。
坂道を上がると三ノ丸跡に到着。
原城の最北の曲輪で、
原城を築城した有馬氏の時代には、
重臣の屋敷が置かれていた場所とのこと。
籠城戦の際は旧小西家家臣大江源右衛門が、
3千5百名で守備したようです。


板倉内膳正重昌の碑」。
道の三叉路を国道側に行くとある慰霊碑。
板倉重昌は討伐軍の上使(総大将)となり、
九州諸藩の軍勢を指揮しますが、
諸藩兵は小大名の重昌に従わず、
再三の攻撃も不調に終わっています。
この事態を重く見た幕府は、
上使交代の為に老中松平信綱の派遣を決定。
焦った重昌は無謀な総攻撃を行い、
鉄砲の直撃を受けて戦死しました。
この碑は重昌の孫板倉重道が制作しますが、
幕府は建立を不許可。
17年後にようやく建立が許されています。

三叉路まで戻って本丸跡方向へ。

二ノ丸跡」。
道は本丸まで真っすぐ進みますが、
左右は二ノ丸二ノ丸出丸西二ノ丸と、
広い曲輪となっていますが、
草に覆われているだけの模様。
ただし広大であったのはわかります、


空堀跡」。
二ノ丸と本丸を分ける巨大な空堀
籠城戦ではここに萱などをかけて、
女子供3千人を収容していたという。
何の意味があるのかはわかりません。


本丸正門跡」。
本丸正門は大きな桝形虎口となっており、
その石垣が現存していますが、
かなり埋まってしまったということなので、
石垣はもっと高かった模様。


ホネカミ地蔵」。
正門石垣右側のにある地蔵。
乱の終結より130年後に、
願心寺住職や南有馬村の庄屋らが、
城跡に残された遺骨を拾い集めて埋葬し、
供養した際に建立された地蔵塔。
ホネカミとは骨と髪の意とのこと。


正門石垣左側石垣の上にある碑。
何らかの慰霊碑のようですが、
説明がないのでよくわかりません。


本丸門跡(築城時)」。
更に内側にもある枡形虎口。
これは有馬氏が築城した当時の正門跡で、
籠城戦の際は二重の桝形があったようです。
こういう籠城戦の場合は、
本丸が落とされる前に終了するものですが、
原城籠城戦では本丸も戦場となり、
一揆勢は皆殺しとなっていますが、
実際に攻める方も大変だった事でしょう。


本丸跡」。
天草四郎は原城本丸を本陣とし、
2千の守備兵と2千の遊軍を配置し、
討伐軍を迎え撃ちました。
新たな上使となった松平信綱は、
力攻めから兵糧攻めに切り替えており、
2ヶ月弱の兵糧攻めの後、
信綱は総攻撃を行うことを決定。
鍋島勝茂の抜け駆けによって戦端は切られ、
圧倒的な数の討伐軍の攻撃で原城は落城し、
乱は鎮圧されています。


櫓台跡」。
本丸跡にある櫓台の跡。
櫓台はかなり大きなもので、
天守相当の櫓が建っていたと思われます。
籠城戦の際もあったという説も。


左分利九之丞の墓」。
左分利九之丞鳥取藩士で、
乱の際に息子と共に使者を務めた人物。
総攻撃の際に戦死したとされており、
討たれた直後にそばにあった石に、
自分の名と日付を刻んだという。
凄い話ですがどれがその墓かわかりません。


天草四郎時貞の墓碑」。
天草四郎の墓碑とされるもので、
西有家町の民家の石垣にあったものを、
ここに移したものという。


天草四郎像」。
天草四郎の本名は益田四郎時貞
小西幸長の家臣益田甚兵衛の子で、
甚兵衛は小西家没落後は帰農。
四郎は幼い頃より数々の奇跡を起こし、
やがて神の子の再来と噂されます。
そして困窮する領民や浪人に推され、
一揆軍の総大将として決起。
日本史上最大規模の一揆を起こし、
原城に立て籠もりました。
そして幕府討伐軍の総攻撃の際、
熊本藩士陣佐左衛門に討ち取られ、
首級は長崎で晒されたとされます。

島原の乱の後に島原藩主松倉勝家は、
一揆を招いた責任で改易処分となり、
後に斬首となりました。
天草を領した寺沢堅高は天草を没収され、
これを恥じて自害し寺沢家は断絶。
また討伐軍でも軍紀を破ったとして、
佐賀藩主鍋島勝茂等が処分されています。
幕府はポルトガルと国交を断絶し、
鎖国政策を開始しており、
この政策が幕末まで続きました。

天草は山崎家治が領主となりますが、
後に天領となって鈴木重成が代官に就任。
天草の復興に大きく貢献しており、
後に戸田忠昌が入封した際は、
富岡城を破却して藩庁を陣屋とし、
領民の負担を軽減したという。
忠昌は天草は天領であるべと提案し、
再び天領となっています。
一方の島原は譜代大名が入れ替わり、
深溝松平家の入封後に藩主家は安定。
そのまま明治維新を迎えました。

実際に訪問すると原城はかなり大きな城。
しかしながら援軍なき籠城は勝ち目は無く、
善戦してもやがては負ける戦です。
松陰がここで何を思ったのかは不明ですが、
その後の松陰の行動を見てみると、
守りより攻めの姿勢だと取れるというのは、
余りにもこじつけではありますね。

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