祥雲寺の久留米藩有馬家墓所の隣に、
分家吹上藩有馬家の累代墓があります。
「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」。
吹上藩有馬家は有馬頼次を祖とし、
※久留米藩初代有馬豊氏の三男。
2代の有馬吉政から紀州徳川家に仕え、
徳川吉宗の将軍就任に伴い幕臣となり、
4代有馬氏倫が加増されて大名となり、
西条藩、五井藩を経て吹上藩に転じ、
有馬氏郁が吹上藩初代となっています。
2代有馬氏弘は幼少で藩政を主導出来ず、
家老による藩運営が行われたようで、
その家老に藩費等が横領されたとして、
家臣の一部が東京の藩邸を襲撃し、
家老を殺害するという事件が発生。
氏弘はこの事件の責任で謹慎し、
10日間の閉門を命じられました。
明治9年には義母の有馬鎮に家督を譲り、
有馬家から除籍していますので、
最後の藩主氏弘は墓に入っておらず、
その後の消息は不明のようです。
※ご子孫の方の情報によると、
福島県安積郡に在住していた模様。
■関連記事■
・和歌山県海南市 紀州徳川家墓所①
紀州徳川家の歴代墓所。
・福岡県久留米市 梅林寺/久留米有馬家墓所
宗家久留米藩有馬家の歴代墓所。
先日はご回答ありがとうございます。
ネットで調べたところ、「吹上斬奸事件」は史料が殆どなく、事件の背景、動機など真意は不明だそうです。
とても残念がっています。
有馬氏弘が殺したことですが、私としては思えないほど正義で優しいということが何となくわかるような気がしています。母は優しくて、声がとても綺麗だと誰でも言っています。残念ながら耳が聞こえない為、聞く判断することが難しいです。従姉は「祖母も優しくて、声がとても綺麗だった」と言っています。親友は「お母様も品格のある雰囲気でした」と言っています。曾祖父にも血が繋がっていて、同じ性格だと推測しています。
ネットで戊辰戦争は武士同志の戦闘から草莽の士や農兵など出現により、身分を超えた政治権力闘争となったと記載してあります。有馬氏弘の人柄に好かれる証拠があると思います。
有馬氏弘は家老と敵になった理由はなにかありましたか。
よろしくお願いいたします。
残念ながら資料がないので、
全ては推測の域を出ません。
その推測も考えられることは無限にあり、
おそらくこうであろうというような、
そういうストーリーも作り上げられません。
間違い無いことは「家老が殺された」事と、
その件で「裁判が行われた」事だけです。
一応の基礎知識としてですが、
藩主というのは藩では絶対権力者で、
基本的には逆らう事は出来ません。
藩主が死ねといえば家臣は切腹するわけですし、
上意として刺客を送る事も出来る。
従って藩主が直接殺す必要はありません。
但し衝動的に怒りが沸点に達して(発狂して)、
切り殺してしまったという例は、
江戸時代を通じて無かったわけではない。
これを基本ルールと考えると、
直接殺害した可能性は低そうではありますが、
勿論発狂もありえるので断言は出来ません。
他藩で起こっていたよくあるパターンでは、
その家老が失政してしまったか、
専横が酷かったか、はたまた思想的問題か、
とにかく反家老派的な藩士達が、
その家老を暗殺したというのが多い。
そして藩の混乱を招いたとして、
藩主が幕府(新政府)に責任を問われるというもの。
吹上藩の場合もそうだった可能性もありますが、
勿論これも断言は出来ません。
普通に考えれば後者のような気もしますが、
残念ながら真相は闇の中でしょう。
ご情報をご提供頂きありがとうございます。
お寺につきましては、住所から推測してそこで没したと仮定するとのこと、良い参考になりました。
昨日は曾祖父の有馬氏弘(安積郡で結婚して以来、死亡)の戸籍申請の為に川口市役所に行って来ました。
血が繋がっていることを認めているとのこと、申請出来ました。
調べたり照会したりする時間がかかると言っていました。出来上がり次第、FAX連絡するとのことです。
(私は聴覚障がい者ですので、電話対応出来ません)
現在ではシステム化で便利になりました。
有馬氏弘の戸籍は難解のようですが、その結果を待つしかないです。
なぜならば、戸籍の歴史は形式が変わったそうです。
お知らせいたします。
殺害の件ですが、裁判記録は[明治初年の世相]にあったことをとても分かりやすい説明して頂きありがとうございます。
・爲太郎の妻は9円の罰金となったとのこと、時代によっての金銭感覚の違いがあるかもしれませんが、今ならいくらですか。
・除籍前は、前妻 本堂釟子 本堂親久男爵の娘と、後妻 松平敏子 岩村藩主松平乗喬の娘がいたことを記載してあります。政略結婚ですか。前妻は病死ですか。具合的に説明して頂けると嬉しいです。
・明治2年9名の藩士が家老を殺傷したという事件が起こった件、一番驚いたのは平民が加わったことですが、有馬氏弘にどういう関係がありますか。
1月5日は祥雲寺で有馬家のお墓参りに行って来ました。「吹上藩斬奸諸士九名」の墓を建てたことは有馬氏弘ですか。暖かくなってから、吹上の正仙寺と吹上陣屋へ行くことを計画しています。
・熱海町下伊豆島と郡山市熱海町上伊豆島が熱海町長橋のついては郡山市の地図で調べました。
郡山市から辺鄙なところですが、有馬氏弘は身を守る為に暮らしているではと考えられます。又は温泉治療しているだろうと思っています。安積疏水開削に近いですか。有馬氏弘(校長先生)は学校に通える場所ですね。
今になって、戸籍謄本を再確認して気が付きましたことは、有馬氏弘の年齢は信じれらないほど驚きました。
二回目の結婚した祖母の主人は昭和10年5月に亡くなりましたが、祖母の父(有馬氏弘)、母は生存です。
当時の母は12歳(出生大正13年8月)でした。(埼玉県川口市本町1丁目130番地)
昭和初期頃、祖父は母と母の兄を有馬氏弘邸へ連れて行ったことを話して下さったことを記憶しています。母は大きい立派な家だと言っておりましたが、あとは記憶していないようです。母は有馬氏弘にお会いできたことを推測しています。
明治2年の藩士9名による家老殺害と、
家老堀内爲太郎殺害は同じ事件のようですが、
藩士9名が殺した筈のところを、
なぜ氏弘が殺したこととなっているのか、
この辺りは非常に謎なところです。
氏弘が命じたということなのか、
それともトップとしての責任を問われたのか、
資料がなくまったく不明。
明治時代の1円の価値は3800円とされますので、
3800円×9で34200という事になりますが、
明治時代も長いので正確ではないかもしれません。
これが正しいとすれば罰金としては、
少し痛いな・・程度のものですね。
前妻本堂釟子は再婚しているようですので、
何らかの理由で離婚したと思われますが、
その詳細については不明。
政略結婚かと言われれば微妙ですが、
藩主ですので室には程度の家柄が必要です。
離婚は家老殺害後の氏弘謹慎が原因でしょう。
9士については存じ上げませんが、
平民というは足軽身分等の士分以下ながら、
忠義に篤い者とかではないでしょうか?
忠臣蔵の寺坂吉右衛門のような感じでしょう。
墓は親族等によるものと思われます。
郡山市は一度しか行った事がありませんので、
地理について詳しくは語れません。
郡山市に問い合わせたところ、
有馬氏弘の情報は無いとのことです。
但し住所から推測してそこで没したと仮定すると、
龍角寺(堀之内村)、西泉寺(早稲原村)、
慈眼寺(長橋村)福田寺(前田沢村)、
満昌寺(上伊豆島村)、慈恩寺(安子島村)の、
何れかに埋葬されたのではないかとのこと。
お墓があるかはわかりませんが・・。
一番近いのは慈眼寺とのこと。
わかるのは以上とのことです。
ご返答ありがとうございます。
重傷を負わせ、死に至らしめたとのこと、大変ショックを受けました。
家老で権小参事だった堀内爲太郎を、殺害したという罪で裁判となった記録があるとのことですが、
この裁判記録は[明治初年の世相]にあったことを読んでも理解できない部分があります。堀内爲太郎の母親は裁判に持ち掛けたでしょうか。
病弱で手足不自由であったのが隠居と離籍の理由らしいとのこと、理解しています。
有馬氏弘の没年不明ですが、戸籍謄本の上では、祖母の2回目の婚姻届は大正3年(1914年)です。
祖母の父(有馬氏弘)と母は生きているようですが、主人の両親が亡くなりました。
計算してみると、有馬氏弘は64歳のようで生き延びたと思っています。
それ以降、わかりません。
よろしくお願いいたします。
母親ではなく妻のようですが、
(堀内保親←息子?の母)
どうも彼女が訴えたのではなく、
何らかで発覚したという事のようです。
それで氏弘と爲太郎の妻が裁かれ、
氏弘は時効で無罪、
爲太郎の妻は9円の罰金となりました。
殺伐とした幕末維新期の事、
尊皇佐幕等の思想の違い、藩政の方針云々と、
色々と理由もあるかもしれませんので、
現代の感覚で考える事は出来ません。
あまりショックがる事は無いと思います。
お世話になっております。
曾祖父の有馬氏弘をもっと知りたいことが沢山あります。
・信濃岩村田藩主内藤正縄の次男として生まれ、旗本有馬家の有馬則国(左京)の養子となった。その子に有馬氏弘(次男)です。氏弘はどこで生まれましたか。
・最後の藩主氏弘は有馬家から除籍された理由は何かありましたか。
・有馬氏弘は郡山市史によると、熱海町下伊豆島の小学校の校長だったとのこと、着任、退任は西暦何年ですか。
・ネットで華族家記・有馬氏弘(国立公文書館)という薄冊が見つかりました。中身を開くことが出来ない状態です。有馬氏弘の字ですか。この内容を知りたいです。お手数をおかけいたしますが、この内容を要約して頂ければ、嬉しいです。
除籍前は有馬氏弘の子供に恵まれないようです。除籍後、娘は一人っ子のようですが、まだ調べないとわかりません。祖母は主人の2回目の結婚していました。
1回目は主人(兄)子(4人)、病気の為、死亡、5年後、祖母は再婚しました。
福島県安積郡郡山町字稲荷51番地(郡山駅の近くに)
2回目は主人(弟)子(5人)→母は末っ子です。
東京府北豊島郡王子町大字1165番地
有馬氏弘の孫は9人いたようですが、皆、他界されました。
「駆け落ち結婚した」「大名のお姫様」という祖母のことを耳にしたイメージがありましたが、実際は違いました。
従姉からの情報では郡山駅の近くに大きな寺に〇〇家凄い立派なお墓があるそうです。寺の名前を忘れたそうです。有馬氏弘は関わりがあるかと思っています。今年5月は裏磐梯高原ホテルに泊まりに行く前は、お墓参りに行く予定です。
よろしくお願いいたします。
判る範囲で・・・
・氏弘はどこで生まれましたか。
>嘉永3年生まれという事は判っていますが、
どこで生まれたかまでは不明です。
・最後の藩主氏弘は有馬家から除籍された理由は何かありましたか。
>家老で権小参事だった堀内爲太郎を、
殺害したという罪で裁判となった記録があります。
この裁判記録は[明治初年の世相]にあり、
国立国会図書館のデジタルコレクションで、
下記のURLで確認できます。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1192767/1/223
また公的には手足の麻痺等の病気により、
隠居して実家に復籍しています、
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000001011&ID=&NO=62&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf
・小学校の校長だったとのこと、着任、退任は西暦何年ですか。
>これについては表に記載されているのみで、
詳しい事は不明です。
下記のURLに記載があります。
https://dl.ndl.go.jp/pid/9642403/1/360
・ネットで華族家記・有馬氏弘(国立公文書館)という薄冊が見つかりました。中身を開くことが出来ない状態です。有馬氏弘の字ですか。この内容を知りたいです。お手数をおかけいたしますが、この内容を要約して頂ければ、嬉しいです。
>活字ではないので詳しくは読めませんが、
藩の公文書の発行記録のようです。
あまりお役に立てず申し訳ありません。
追記:殺害の件ですが重傷を負わせて、
死に至らしめたとのこと。
病弱で手足不自由であったのが、
隠居と離籍の理由らしいので、
相手は武士ですしそんな人に殺人は可能なのか?
結局この件は無罪となっていますし、
疑問点が多すぎて謎だらけです。
色々とありがとうございました。
有馬氏弘のお墓の難易度は結構高いとのこと、了解いたしました。
銀行から母の相続依頼書があった為 川口市役所(埼玉県では母の出生から死亡までの戸籍謄本で有馬氏弘という名前が明らかになりました。母は曾祖父のことを聞いたことがあります。福島県はどの藩にお務めたかということが解らないそうです。この名前を聞きませんでした。有馬氏弘のことをネットで調べてみると12歳で跡を継がれたのはすごいと思いました。
有馬氏弘の没年につきましては、郡山市役所に死亡届があるのではと考えれらます。
また何か発見することがありましたら、メールを頂ければ幸いです。
ご返信ありがとうございます。
先程コメントを送信しました件ですが、姉に確認しましたところ、祖父が動物研究家でなくて、正当は動物研究所にお務めていましたとのことです。私にも有馬氏弘の没年を知りたいですので、よろしくお願いいたします。
祖母が生まれたところ、安積郡丸守村大字長稿字館92番地と記載してあります。
有馬氏弘は郡山市史によると、
熱海町下伊豆島の小学校の校長だった模様。
安積郡丸守村大字長稿字館92番地の住所は、
現在は変わっていてありませんが、
郡山市熱海町上伊豆島が熱海町長橋辺り??
現状追えるのはこの位です。
ご情報をご提供頂きありがとうございます。
有馬氏弘は小学校の校長だったとのこと、案外でした。
安積開拓にしているところへ行ったというイメージがありました。
祖母が生まれる前は何にしているだろうと前から気になっていました。
現状追えるとのことを楽しみにしております。
よろしくお願いいたします。
郡山市の歴史資料館にメールで問い合わせましたが、
果たしてどうでしょう??
現状追えるのはこのくらい(住所を推測する程度)で、
それ程手段は無いですとの意味でした。
当方も遠方(山口在住)ですので郡山に行って、
墓地を片っ端から探すという事も出来ません。
幕末史の資料を集め、史跡を訪問する傍ら、
また何か発見する事があれば、
お伝えする事はできますが、
難易度は結構高いと思います。
言い方が悪かったようで過度な期待をさせて、
申し訳ありませんでした。
私の曾祖父は有馬氏弘(母方)だったそうです。歴史に残っているようです。最近、戸籍謄本で知りました。祖母が駆け落ち結婚したことを聞いていますが、戸籍謄本をみて華族から平民に変えた方法があるようです。祖母は平民の養父のなった時は好きな祖父と結婚出来たと推測しています。祖母は私が一歳の時に他界されたそうです。記憶が全くありませんが、上品な祖母だったそうです。祖母が明治19年に福島県安積郡に生まれたことを
戸籍謄本の記載してあります。有馬氏弘の夫婦のお墓は福島県安積郡にあるかどうかわかりませんが、
私は聴覚障がい者(重度)ですので、コミュニケーション方法は筆談とかメールやり取りなどがあります。
よろしくお願いいたします
コメントありがとうござます。
つまり最後の藩主氏弘は有馬家から除籍後、
福島県安積郡で暮らしていたと推測できますね。
その後に御祖母様がお生まれになって、
御祖父様と駆け落ちして平民となり、
御母上が生まれたという事ですか。
ご上品な方だったとのことですが、
流石はお姫様といったところです。
駆け落ちは相当の勇気がいる行為でしょうが、
きっと幸せな人生であった事でしょう。
不明である有馬氏弘の墓所ですが、
福島県安積郡やその周辺にあるかもですね。
貴重な情報ありがとうございます。
御先祖様を呼び捨てにしていますが、
歴史上の人物ですのでご了承ください。
また何か情報、感想等、
お気軽にコメント頂ければ幸いです。
御祖父様と駆け落ちして平民となり、御母上が生まれたという事ですか。
はい、母が東京都北区王子(現在)に生まれました。母は末っ子です。
祖父の仕事は動物研究家と聞いていますが、
御祖父様は動物研究家でしたか。
当時は理解されにくい職業だったでしょうから、
その辺りが駆け落ちの原因かもですね。
あれから少し有馬氏弘について調べると、
除籍した際に平民となっていたようで、
家老殺害への関与疑いで一時捕縛されますが、
時効の為に免じられて釈放されたとのこと。
明治11年2月の時点での住所は、
麻布東鳥居坂町一番地となっています。
(現在の港区六本木五丁目辺り)
それ以降に福島県安積郡に移ったのでしょう。
ご情報ありがとうございます。
戸籍謄本に
「父:有馬氏弘 母:なを 長女:亨 養父:渡邉孝蔵
祖母の出生は明治19年5月15日です。婚柄事項字名ハ身分登記依り記載、父母・氏名ハ身分登記依り記載」ということを記載しております。
有馬氏弘の夫婦のお墓が何処にあるかと気になっています。
有馬氏弘の墓所は現在のところ不明。
没年も判らない状態です。
とはいえどこかのお寺にある可能性もあり、
焦らず情報を集める事が大事かと存じます。
福島県安積郡は現在の郡山市ですが、
もしかしたら郡山の郷土史家等、
意外に調べていたりするかもです。