常信寺は愛媛県松山市にある天台宗の寺院。
持統天皇4年(690)創建の法相宗の寺が、
大同年間(806-809)に真言宗に改宗して、
後に天台宗に再度改宗したという。
※寺号はその度に変わっています。
伊予松山藩初代藩主松平定行が入封すると、
松山城の鬼門にあたる現在地に移転し、
常信寺と改称しています。
「常信寺」。
伊予松山藩松平家の菩提寺のひとつで、
この他に4つの菩提寺が市内にあります。
※久松家四ヶ寺と称されています。
他の3寺は大林寺、法龍寺、法華寺。
境内は広く綺麗に手が加えられており、
雰囲気の良いお寺でした。
道後温泉の風俗街歌舞伎通りを北上し、
参道らしからぬ道を進むと常信寺。
江戸時代から精進落としはつきものですし、
古い温泉街にもつきものですので、
ある意味おかしい事は無いのでしょうが、
少し通り辛い気もしますね。
この寺に初代松平定行の霊廟があります。
「松平定行霊廟拝殿」。
本堂裏手に定行の霊廟がありますが、
裏手から見えるのは霊廟前の拝殿のみ。
仕方ないので鐘楼のある西側の高台へ。
「松平定行霊廟」。
横からですがこちらからは見えました。
定勝は松平定勝の次男として生まれ、
兄松平定吉が徳川家康に咎められ、
これを苦に自害した為に嫡子となります。
父の死去に伴い桑名藩の藩主に就任。
後に4万石加増のうえ伊予松山藩に転封し、
西国外様大名への牽制となりました。
桑名藩含む34年の治世の後に隠居し、
俳句や茶道に勤しみながら余生を過ごして、
寛文8年(1668)に死去しています。
霊廟の見える位置には、
最後の藩主松平定昭の遺髪墓がありました。
「従五位忠敏久松公藏髪之碑」。
忠敏久松公は定昭の諡号です。
定昭は津藩11代藤堂高猷の五男に生まれ、
13代松平勝成の養嗣子となり、
慶応2年に養父の隠居に伴い家督を相続。
京都警護や長州征伐等に藩兵を派遣し、
慶応3年には老中に就任しました。
しかし直後に大政奉還となり老中を辞任。
新政府が発足すると朝敵となり、
城を明け渡して蟄居謹慎となっています。
廃藩置県翌年の明治5年に死去し、
東京の済海寺に葬られていますが、
遺髪はここに埋葬されました。
高台を下りて本堂東側の墓地へ。
「松平定政霊廟」。
定行の弟元刈谷藩藩主松平定政の墓。
松平定勝の六男として生まれ、
刈谷藩2万石の藩主となりますが、
3代将軍徳川家光が死去すると、
幕府に無届で落髪して僧となり、
自らの領地と財産の一切を返上し、
困窮する旗本の救済に当て欲しい旨を提出。
幕閣はこれを狂気の沙汰であるとして、
所領没収のうえ永蟄居処分とし、
伊予松山藩の松平定行に預けています。
定政は許される事はありませんでしたが、
4代将軍徳川家綱より給米2000俵を賜り、
その生活は苦しくはありませんでした。
定政は20年程松山で暮らし、
寛文12年(1672)に死去。
兄定行の横に葬られています。
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