下関市吉田 東行庵/時山直八の墓

奇兵隊顕彰墓地にある時山直八の墓碑。

慶応4年5月13日。
奇兵隊参謀時山直八は二個中隊を率い、
奥羽越列藩同盟軍の陣地朝日山を攻撃。
しかし道案内が道を間違えた為に、
同盟軍陣地の真正面に出てしまい、
多くの犠牲者を出して後退しました。
時山は山麗で陣を立て直しますが、
運悪く敵の銃弾が顔面を捉えて即死。
混戦の為に首級だけが持ち帰られます。
遅れてきた新政府軍参謀山縣有朋は、
撤退する友軍とすれ違った際、
時山の首級を見つけると、
片腕を亡くしたと泣き崩れたという。


時山直八養直墓」。
時山は士雇時山茂作の長男としてうまれ、
岡部半蔵宝蔵院流槍術を学び、
同じく岡部に学んだ山縣と知り合います。
吉田松陰松下村塾に入門し、
家が遠かった為に泊り込んでいたという。
万延元年に江戸に遊学し、
藤森弘庵安井息軒に学んだ他、
清水昌蔵という槍術家の門弟となりました。
その後は尊皇攘夷活動に邁進し、
山縣と共に岡藩に赴くなどしています。
※捕吏に捕まりそうになって退去。
禁門の変にも参加しており、
敗れて長州に帰ると浪士取締役となり、
敗残兵の取りまとめを行っていますが、
馬関出張を命じられ奇兵隊に合流。
この際に山縣は無視して会おうとはせず、
福田侠平が京の戦状を聞いていますが、
終始号泣して説明したという。
山縣の無視はその仲故かもしれませんが、
その後は山縣と仲直りしたようで、
下関戦争では支隊を率いて戦っています。
幕長戦では奇兵隊参謀として小倉戦争に参加。
戊辰戦争では山縣と共に北越戦争へ向かい、
上記のように朝日山攻防戦で討たれました。
この時の敵は立見三郎率いる雷神隊で、
その輝かしい戦績の中でも、
時山を討ち取った事は金星だったようです。

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東京都港区 青山霊園/立見尚文墓所
 時山を討ち取った雷神隊の隊長。
東京都文京区 護國寺
 盟友であった山縣の墓所があります。