秋田県能代市 多宝院/多賀谷家墓所

多宝院は檜山領主多賀谷家の菩提寺で、
常陸の豪族であった延徳元年(1489)に、
下妻に創建された曹洞宗の寺院。
慶長7年(1602)に佐竹家の秋田転封の際、
多賀谷宣家は仙北郡白岩を与えられますが、
同15年(1610)に檜山城代となると、
多宝院も現在地に移転しています。


本堂」。
現在の本堂は明和9年(1772)建築のもので、
かなり大きくて立派な建物。
当時は茅葺き屋根であったようですが、
鉄板葺きに変えられています。


多賀谷家墓所」。
南側斜面の墓地にある多賀谷家の墓所。
訪問時は参道が雪に埋もれており、
辿り着くのに苦労しましたが、
墓所には雪がありませんでした。
中央に「多賀谷家之墓」が建ち、
その周辺に一族の墓が建っています。
墓石は痛んでいるものが多く、
碑銘が読めないものもあり、
特定出来たのは下記の4基の墓碑だけ。


㭺棺霊嶽院殿義光祥意大居士」。
10代当主多賀谷和経の墓。
9代多賀谷敦候の子で、
父敦候は佐竹東家からの養子でしたが、
この和経以降は実子が相続しています。


恭徳院殿忠兗祥敬大居士」。
11代当主多賀谷厚孝の墓。
10代和経の子として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
秋田武鑑が成立した頃の当主とのこと。


榮徳院殿富山春大居士」。
12代多賀谷睦貞の墓。
11代厚孝の次男に生まれ、
父の死去に伴い家督を継いでいますが、
僅か16歳で死去しています。


泰儼院殿恵温祥良大居士」。
13代多賀谷家知(睦昭)の墓。
11代厚孝の三男として生まれ、
兄の早逝により家督を相続しました。
秋田戦争では手勢を率いて参陣し、
大館方面で戦っています。
文献等では多賀谷長門として登場。

中央の多賀谷家之墓の隣辺りには、
多賀谷禮次郎という人物の大きな墓があり、
仙台士族佐藤市蔵の次男と刻まれています。
また多賀谷家貞という人物が、
文久2年生まれで68歳で死去しています。
彼らは明治以降の当主と思われますが、
情報が乏しくよくわかりません。

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