東京都台東区 谷中霊園/加藤有隣墓所

笠間藩出身の儒学者加藤有隣の墓。
長州藩に招かれて明倫館教授も務めた人物。


桜老加藤煕之墓(右2)」。
加藤有隣(桜老)と加藤家の墓。
水戸藩藩士佐藤政祥の子に生まれ、
外祖父の笠間藩藩士加藤信義に預けられ、
後に加藤家の養子となっています。
笠間藩儒者森田桜園に学び、
藩校時習館の都講に就任。
水戸藩の会沢正志斎藤田東湖に学び、
江戸の昌平坂学問所にも入学しました。
藩では家老川崎頼母が専制を行っており、
有隣は同志らと謀って川崎排除に動き、
この騒動で家老牧野光保が自刃し、
川崎は蟄居、有隣らも罰を受けました。
後の弘化2年に家督を相続しますが、
病と称して出仕を拒み続け、
挙句に嘉永4年に隠居を命じられて、
嫡男加藤麟太郎に家督を譲ります。
その後は自宅近くに十三山書楼を構え、
私塾詠帰塾を開いて隠棲。
詠帰塾には多くの志士達が訪れて、
講義を受けたり時勢を語り合いました。
特に高杉晋作は二度も有隣を訪ねており、
一度目は試撃行日譜に記載されていますが、
朝から深夜まで延々と語り合ったようで、
余程晋作の事が気に入ったのか、
翌日の出発の挨拶に晋作が再訪した際は、
再び招き入れて食事まで出しています。
二度目は脱藩した晋作が有隣の許を訪れ、
有隣に説得されて藩邸に戻ったという。
その後は長州藩からの要請で萩に赴き、
藩校明倫館の教授に就任。
新政府にも出仕して教育に携わり、
明治10年まで務めました。
明治17年、死去。

墓所は谷中霊園乙6号3側

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試撃行日譜④
 晋作と有隣の出会いが記載されています。