千葉県千葉市 重俊院/生実藩森川家墓所①

①/
重俊院は生実町にある曹洞宗の寺院で、
生実藩の藩主家である森川家の菩提寺。
寛永9年(1632)に2代藩主森川重政が創建し、
父で初代藩主の森川重俊の菩提を弔い、
以後は歴代藩主の墓所となっています。


本堂」。
昭和49年に全焼したようで、
現在の本堂はその後の再建。
藩主家の位牌も焼失したようです。
かつては丹塗りの山門もあったようで、
近隣の子供は赤門のお寺と呼んでいたという。


森川家墓所」。
森川家の墓所は本堂の裏手。
墓域には藩主や奥方の墓の他にも、
旗本森川家の墓もありました。


捐舘 重俊院殿前羽州大守
 活國正英大居士 神儀
(左)」、
掩䊋 宗仙院殿洞真永中大姉 淑位(右)」。
初代藩主森川重俊の墓と正室宗仙院の墓。
徳川秀忠の近習として仕えた重俊は、
3000石を与えられていましたが、
大久保忠隣の養女を正室としていた事から、
忠隣の改易に連座する事となり、
酒井家次に身柄を預けられました。
その後の大坂夏の陣では家次配下で出陣し、
武功を挙げた事から許されて、
再び秀忠の近習に復帰。
後に1万石に加増されて生実藩を立藩し、
老中にまで出世しています。
しかし寛永9年(1632)に秀忠が死去すると、
その翌日に追腹を切って殉死
亡骸はこの地に葬られました。


捐舘 一鑑院殿前伊州太守
 圓徹全照大居士 神儀
(右)」、
圓通院殿性空妙真大姉(左)」。
2代藩主森川重政の墓と正室圓通院の墓。
初代重俊の嫡男として生まれ、
父の殉死により家督を相続。
大坂加番を務めて大坂城を修復しており、
30年の治世の後に死去しています。


覺林院殿月窓知閑大居士」。
3代藩主森川重信の墓。
藩主で唯一印塔の墓です。
2代重政の次男として生まれますが、
兄の森川重般が病弱を理由に廃嫡された為、
世子となって父の死後に家督を相続。
29年の治世の後に隠居しており、
14年の隠居生活の後に死去しました。
ちなみに廃嫡された重般は長生きしており、
重信の死後11年も生きています。


英雄院殿朝散大夫前出羽入道
 一之顕光大居士 神儀
(右)」、
慈眼院殿海印淨光大姉(左)」。
4代藩主森川俊胤の墓と正室慈眼院の墓。
3代重信の嫡男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
5代将軍徳川綱吉より寵愛を受け、
奥詰小姓大番頭に任じられており、
大坂城、二条城江戸城の各城番も歴任。
6代将軍徳川家宣の時代も、
寺社奉行奏者番となっており、
後に若年寄に出世しています。
7代将軍徳川家継を経て、
8代将軍徳川吉宗にも仕えますが、
吉宗に疎まれて若年寄を罷免。
40年間藩主を務めた後に隠居し、
14年の隠居生活の後に死去しました。


功全院殿前朝散大夫
 忠林玄心大居士 神儀」。
5代藩主森川俊常の墓。
4代俊胤の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しましたが、
僅か2年で病死しています。

つづく。
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