①/②
つづき。
「不二院殿前朝散大夫
無關善應大居士 神儀(左)」、
「高亮院殿靑巖秀雲大居士 神儀(右)」。
6代藩主森川俊令の墓と、
7代世嗣森川俊盛の墓。
俊令は旗本森川家当主森川重良の次男で、
5代藩主森川俊常の死去に伴い、
末期養子となって家督を相続しました。
大番頭、大坂定番を務めており、
日光祭祀奉行にも任じられています。
約30年の治世の後に隠居し、
後に出家して善應と称したようで、
23年の隠居生活の後に死去。
俊盛は7代森川俊孝の嫡男でしたが、
父に先立って死去しています。
「泰崇院殿前紀州太守
貫元隆道大居士 神儀」。
7代藩主森川俊孝の墓。
6代俊令の嫡男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
父と同じく日光祭祀奉行に任じられ、
大番頭や大坂城等の定番も務めており、
奏者番にも任じられましたが、
間もなく病死しています。
「徳隣院殿朝散大夫謙忠宗恭大居士 神儀」。
8代藩主森川俊知の墓。
7代俊孝の弟森川俊輝の長男に生まれ、
継嗣を亡くした伯父俊孝の急死により、
末期養子として家督を相続しました。
大番頭、奏者番から若年寄に就任しており、
将軍家の養子縁組、婚姻に尽力。
11代将軍徳川家斉や、
12代将軍徳川家慶より信任を得ています。
天保9年(1838)、死去。
「雄月院殿前羽州太守
徳山含章大居士 神儀」。
9代藩主森川俊民の墓。
島原藩2代松平忠馮の八男として生まれ、
8代俊知の婿養子となっており、
義父の死去に伴い家督を相続。
大番頭、奏者番を経て若年寄となりました。
しかし病を得て若年寄を辞職しており、
その同年に死去しています。
「謙恭院殿前羽州大守
儀山公賢大居士 神儀」。
10代藩主森川俊位の墓。
9代俊民の三男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しますが、
僅か3年で早逝しています。
「玉應院殿前羽州大守
真室静繁大居士 神儀」。
11代藩主森川俊徳の墓。
伊勢亀山藩9代石川総紀の次男に生まれ、
10代俊位の急死に伴い末期養子となり、
森川家の家督を相続しました。
代々務めた日光祭祀奉に任じられますが、
2年後の文久2年に僅か19歳で病死。
「徳光院殿文譽仁興保恭大居士」。
12代藩主森川俊方の墓。
出羽松山藩6代酒井忠方の六男で、
11代俊徳の急死に伴い家督を相続。
幕末も末期に就任していますが、
若年であった為に何ら決断は出来ず、
藩も小藩だった事に加え、
相次ぐ藩主の死に藩政は混乱。
鳥羽伏見の戦いで新政府軍が勝利した後、
京都に家臣を派遣して恭順の意を示し、
戊辰戦争に藩兵を出陣させています。
明治10年、死去。
重俊院森川家墓所は千葉市唯一の大名墓所。
小藩ながら大名墓所らしい威厳と規模です。
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