萩市街より国道191号線を北へ向かい、
約10km程進んだ大井浦という場所に、
吉見正頼親子の墓があります。
吉見家は津和野の国人領主で、
後の大野毛利家に連なる系譜。
正頼は毛利元就に従って家臣となり、
阿武郡全域等を与えられていました。
「吉見正頼墓(右)」、
「吉見広頼墓(左)」。
12代当主吉見正頼の宝篋印塔と、
13代当主吉見広頼の宝篋印塔。
12代正頼は大内義隆の姉を室とし、
大内家と姻戚関係にあった事から、
陶晴賢に義隆が討たれた際は、
これに反旗を翻しています。
三本松城(津和野城)の籠城戦では、
100日以上の籠城戦を戦い抜き、
厳島の戦いで晴賢が討たれると、
元就に呼応して山口に侵攻。
大内家滅亡後は毛利家家臣となり、
元就の覇業に貢献しました。
晩年は指月山に居館を設けて隠棲し、
指月山山麓に葬られています。
13代広頼は正頼の嫡男に生まれ、
大内義長の人質となっていますが、
晴賢の敗北後に戻されました。
父正頼の隠居後に家督を相続し、
父と同じく主家に忠実に仕えたという。
次男の吉見広長に家督を譲りますが、
広長は毛利家に不満を持ち出奔。
これにより吉見家の所領は失われますが、
吉川広家の次男吉見政春を婿養子に貰い、
家督と隠居料1139石を相続させ、
指月城築城後は大井浦に移居しました。
指月山山麓にあった正頼の墓は、
その際に現在地に改葬されており、
椿郷にあった正頼の菩提寺円通寺も、
大井に移されて周鷹寺と改称しています。
政春は後に毛利就頼を名乗り、
大野毛利家を創設した為、
吉見家の嫡流は断絶していますが、
大野毛利家では毛利家の家紋は用いず、
吉見家の丸に二つ引を使いました。
「周鷹寺」。
吉見正頼菩提寺の曹洞宗寺院。
正頼の開基により創建した寺で、
始め円通寺という寺名でしたが、
広頼が大井浦に居館を移転する際、
円通寺も移されたようです。
その際に正頼の法名に因み、
※周鷹寺殿月左鷹公大居士。
周鷹寺に改称されたようです。
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