山口県周南市 性梅院/堅田家墓所②

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つづき。


謙徳院殿前房州〇山卓防居士」。
5代当主堅田元武の墓。
4代堅田廣慶の養子だったようですが、
誰の子か調べられていません。
鶴浜を最初に干拓した人物とされ、
当役を務めていましたが、
9代将軍徳川家重献上の太刀の鍔に、
傷が付いていた事を咎められ、
謹慎処分となったとされています。


瑞功院殿祥嶽大麟居士
 瑞龍院殿海雲慈光大姉
」。
6代当主堅田廣範とその室千枝姫の墓。
彼も養子のようですが詳細は不明。


誠忠院殿篤叟如順大居士」。
7代当主堅田就正の墓。
6代廣範の子として生まれ、
家督相続後は当職や当役に任じられ、
有栖川宮織仁親王の娘栄宮が、
9代藩主毛利斉房に輿入れする際、
結納降嫁の使者を務めています。
しかし大野毛利家毛利親頼等と、
藩政改革を私議したとして処罰されました。

8代当主堅田房忠の墓は、
探しても見当たりませんでした。
彼も養子のようです。


龍珹院殿故駿州恬退宜〇大居士」。
9代当主堅田元琦の墓。
徳山毛利家8代毛利広鎮の子で、
8代房忠の養子となって家督を相続。
三家老のひとり福原元僴の兄でもあります。


温徳院殿故房州堅雄宗恪大居士」。
10代当主堅田謹恪の墓。
彼も養子で5代より養子が続いています。


堅田少輔墓(左)」、
堅田千佐比女神霊(右)」。
11代当主堅田少輔の墓と正室千佐姫の墓。
寄組高洲家の五男として生まれ、
10代謹恪の婿養子となり家督を相続。
慶応元年に八幡隊の総監に就任し、
芸州戦争小倉戦争に従軍しました。
慶応3年の諸隊再編後は鋭武隊総監となり、
同年に山陽道出兵総督に就任。
福山城に進軍して福山藩を降伏させました。
明治4年に米国留学しており、
明治8年に帰国して工部大学校技手に就任。
明治10年に成章学舎を創立していますが、
郷里に帰って山口中学校教諭、
山口高等中学校教授等を務めています。
明治24年には衆議院補欠選挙に立候補。
衆議院議員となって連続2期務めた後、
明治31年に周陽中学校校長に就任し、
大日本教育会山口支会商議員も務めました。
明治42年には湯野村村長となり、
5年務めた後に引退。
大正8年に死去しています。
ちなみに彼の兄は三家老国司親相

流石は寄組筆頭といった立派な墓所。
規模的は一門八家に匹敵するでしょう。

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