①/②
性梅院は周南市湯野にある浄土宗寺院。
慶長8年(1603)に西蓮寺として建立され、
後に領主堅田就政によって、
その室の院号から性梅院に改められ、
以後は堅田家歴代の菩提寺となりました。
「性梅院」。
本尊は阿彌陀如来で、
観音菩薩と勢至菩薩との三尊像の他、
和漢の祖師像二軀があるとのこと。
堅田家は毛利家譜代粟屋家の庶流で、
粟屋元通の次男堅田元慶を祖とします。
益田家、福原家に次ぐ家柄で、
寄組筆頭として藩政に大きく関わり、
湯野周辺6126石を所領しました。
「湯野石風呂」。
境内にある古代の蒸し風呂遺構。
トタンで保護されているようですが、
ボロボロで中も傷んでいる模様。
「堅田家墓所」。
堅田家の歴代墓所。
寄組筆頭だけあって立派な墓所で、
山肌に沿ってL字になっており、
大きな自然石の墓碑が並びます。
「常照院殿前和州刺史甫庵正圓大居士
千林院殿華嶽宗春大姉」。
初代当主堅田元慶とその室千枝姫の墓。
粟屋元通の次男として生まれ、
毛利家当主毛利輝元に近習。
元服後は優れた行政手腕で信任を得て、
小早川隆景の養子に推されますが、
これを固辞して堅田姓を名乗りました。
その後も輝元や隆景の寵愛を受け、
輝元出頭人に選出されて行政を担当。
関ヶ原の後は輝元の嫡子毛利秀就と共に、
証人となって江戸で暮らします。
毛利家は幕府に再三の放免を願いますが、
叶う事はなく江戸で死去。
墓所は港区の瑠璃光寺にもあるとのこと。
「就政院殿房州前司堅平宗入大居士」。
2代当主堅田就政の墓。
初代元慶の嫡男として江戸で生まれ、
父の死去に伴い10歳で家督を相続。
成長すると当職に任じられ、
長州藩の財政再建に取り組み、
財政難で減らされた藩士の知行を戻し、
そのうえで収入の25%を上納させる等、
藩士の負担を軽減させています。
また藩の法整備も進めており、
非常用の資金備蓄も行いました。
他の当主と違い自然石ではありませんが、
同じ形の墓が大寧寺にもあります。
ちなみに寺名の由来となった就政の室は、
見当たりませんでした。
※見落としかもしれません。
後室天桂院の墓はありました。
「正武院殿従秀翁閃居士
長春院殿三峰壽松大姉」。
3代当主堅田就門とその室佐多姫の墓。
右田毛利家3代毛利元法の三男で、
2代就政の養子となり家督を相続しました。
「廣慶院殿前房州一輪利益居士
清涼院殿月海智〇大姉」。
4代当主堅田廣慶とその室奈美姫の墓。
就門の子で当職を務めています。
つづく。
①/②
■関連記事■
・山口県長門市 大寧寺墓地/寄組墓碑①
大寧寺墓所にある2代当主堅田就政の墓。
・山口県周南市 後山招魂場
寄組堅田家家臣の招魂場。