真田博之主演のドラマ[SHOGUN 将軍]が、
世界で高評価を受けているらしい。
ジェームズ・クラベル原作のこの作品は、
徳川家康や細川ガラシャをモデルとして、
関ヶ原前夜の政治的駆け引きを描いたもの。
その中に登場する英人ブラックソーンは、
ウィリアム・アダムスをモデルとしますが、
そのW・アダムスの墓が平戸にあります。
平戸湊の記事に加えるつもりでしたが、
※長崎県平戸市 平戸湊①。
上記のように有名になりつつあるので、
単独の記事とする事としました。
「無縁塔(左)」、
「三浦按針之墓(中央)」、
「IN MEMORY OF WILLIAM ADAMS AND
HIS WIFE MARY HYN ADAMS MARRIED
20 AUGUST 1589(右)」。
伝三浦按針(ウィリアム・アダムス)の墓。
W・アダムスはケント州ジリンガムで生まれ、
船員だった父を亡くした後にロンドンに移住。
船大工に弟子入りした後に海軍に入り、
後に補給船の船長となっています。
除隊後は商船で航海士や船長を務め、
やがて極東を目指すオランダ船団に採用。
航海士として日本を目指す事となりますが、
航海は非常に酷いものだったようで、
極東に辿り着いたのは1隻のみでした。
アダムスの乗るその1隻は臼杵に漂流し、
臼杵城主太田一吉の通報により、
長崎奉行寺沢広高がアダムスらを拘束。
大坂城の豊臣秀頼に指示を仰ぎますが、
イエズス会はアダムスらを海賊と注進し、
※イエズス会はカトリックで、
アダムスら英国、蘭国はプロテスタント。
徳川家康がアダムスらを預りました。
家康はアダムスらと謁見しており、
カトリックとプロテスタントの争いを知り、
彼らを江戸に招いています。
通訳や西洋知識の伝授の他に、
西洋式帆船の建造を任せられたアダムスは、
家康に250石の旗本に取り立てられ、
三浦按針の名乗りを与えられており、
外国顧問として重用されました。
しかし家康の死後は幕府の方針が変わり、
将軍徳川秀忠やその継嗣徳川家光から冷遇。
平戸で英国商館を手伝いながら、
元和6年(1620)に死去しています。
この墓所は按針の墓と伝えられていたもので、
昭和6年に発掘調査が行われており、
西洋式に埋葬された頭蓋骨と足骨を発掘。
その骨が西洋人の骨と分析されました。
こちらは按針の墓碑とされていたもの。
何らか刻まれていたようですが、
風化で判別は出来ません。
この墓碑の下辺りに按針の骨があったという。
もしかしたら[SHOGUN 将軍]の影響で、
観光客がいるかもと思いましたが、
全く誰もいませんでした。
訪問時は灼熱の太陽の光が照り付ける正午。
そりゃ居ないか・・・。
■関連記事■
・長崎県平戸市 平戸湊①
かつて貿易港として栄えた平戸湊。
・長崎県平戸市 平戸城跡
平戸藩松浦家の居城跡。
・長崎県平戸市 田助浦
平戸にある風待ち及び潮待ちの港。