長崎県平戸市 平戸湊①

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平戸湊は中世より栄えた港で、
平戸藩松浦家の本拠地となっていた地。
足利幕府より朝鮮との通商を許され、
更にとも交易を行いました。
その後もポルトガルイスパニア
オランダイギリスの船が入港。
特にオランダ、イギリスの2国は、
平戸に商館を設置する程にもなっており、
海外貿易によって富をもたらしました。
江戸時代に入って出島が建設されると、
平戸藩は海外貿易を奪われますが、
その後は国内貿易に切り替えており、
城下町だった事もあって廃れることもなく、
流通の拠点として賑わいました。

英国商館通りよりオランダ商館通りまで、
かつての本町通りを歩いてみます。

英国商館通り(木引田町)」。
英国商館が建てられていた事から、
[英国商館通り]と名付けられた通り。
かつては[木引田町]と呼ばれ、
本町通六ヵ町の一つでした。


御菓子司 平戸蔦屋(按針の館)」。
文亀2年(1502)創業の長崎最古の菓子店蔦屋
名物カスドースポルトガル人より伝えられ、
江戸期は平戸藩門外不出の菓子だったようで、
庶民は食べられない幻の菓子だったという。
イギリス人ウィリアム・アダムスは、
徳川家康に外交顧問として仕え、
三浦按針の名と知行地を与えられますが、
家康の死後は不遇な扱いを受けており、
晩年は英国に雇われ平戸で過ごしました。
按針は英国商館には居住せずに、
この蔦屋木田弥治右衛門宅に住んだという。
在宅中はイギリス国旗を掲げたとのこと。


ウィリアム・アダムス終焉の地」。
白石ピアノ教室の脇に碑がありますが、
先程の蔦屋に住んでいたのに、
ここが終焉の地というのはどういう事?
最後の最後にこちらに移ったのかな?


英国商館跡」。
白石ピアノ教室の隣が英国商館の跡地。
按針は幕府と英国の仲介を行い、
艦隊司令官ジョン・セーリスを、
家康や徳川秀忠に謁見させます。
これにより英国との通商が開始されますが、
セーリスは平戸の在留中国商人李旦より、
邸宅を借りて(後に買上)イギリス商館とし、
リチャード・コックス商館長に任じ、
按針を顧問として採用しました。
英国商館は元和9年(1624)に閉鎖。
後に英国は日本への来航を禁じられています。

更に北へ行ったT字路を右折。
本町通りを一時離れて幸橋へ。

幸橋」。
寛文9年(1669)に平戸藩4代松浦重信により、
木造の橋が架けられて[幸橋]と命名。
後に5代松浦棟石橋に架け替えており、
[オランダ橋]の別称でも呼ばれたという。
国指定重要文化財

幸橋を渡って市役所前へ。

英國商館遺址之碑」。
昭和2年に建立された跡碑。
実際の商館は対岸の木引田町にあり、
この場所ではありませんでした。
碑には開設当時の商館員11名の名と、
向こう岸に商館があった事が、
英語で記されています。

本町通りに戻り少し北へ進み、
更に西側の小高い場所へ。

五峰王直居宅跡」。
王直の貿易商人で倭寇の頭目。
松浦家25代松浦隆信に招かれて、
盛んに貿易を行っていたという。
天文19年(1550)のポルトガル船来航は、
王直の手引きであったという。
王直の住居は現在民家となっており、
玄関先に碑があるのみ。
王直は後に倭寇の取締りで捕縛され、
明によって処刑されています。

本町通りへ戻る。

宮ノ町」。
宮ノ町は七郎宮という宮があったことから、
その名で呼ばれていたようですが、
現在は亀岡神社に合祀されたようです。


ポルトガル船入港之地」碑。
宮ノ前通りとのT字路にある碑。
当時は海岸だうたようで、
ポルトガル船が初来航したとされる場所。
永禄4年(1561)には平戸の商人と、
ポルトガル船員との間に論争が発生。
通りがかりの武士が仲裁に入りますが、
誤解をうけて激化して大喧嘩となり、
ポルトガル船長以下十数名が死傷し、
平戸から逃げ去っています。
後にポルトガルは平戸との貿易を終了。
大村純忠との貿易を始めました。
宮ノ前事件

つづく。
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