京都府京都市 賀茂御祖神社

賀茂御祖神社山城国一宮で、
通称下鴨神社と呼ばれます。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)と共に、
賀茂県主氏の氏神を祀る神社で、
両社で賀茂神社と総称されています。


一の鳥居」。
旧三井家下鴨別邸の横にある一の鳥居
ここから長い表参道が始まります。


糺の森」。
糺の森は境内に広がる原生林。
参道に沿うように南北に伸びており、
面積は124000㎡とされています。
かつては49500000㎡あったとされ、
応仁の乱等でその7割が消失。
現在は全域が国の史跡に指定された他、
境内全域は世界遺産に登録されています。


ニの鳥居」。
長い参道を抜けてやっと二の鳥居
この手前で西側の脇参道と合流しますが、
今回は往路復路共に表参道を通り、
脇参道は通っていません。
そちらには多くの摂社があり、
鴨長明ゆかりの河合神社もありました。
※表参道から見えます。
楼門」。
寛永5年(1628)再建の楼門
それ以前は式年遷宮で造り替えられ、
21年ごとに新しくなっていました。
以降は21年ごとに解体修理が行われ、
次の式年遷宮は令和18年とのこと。
国指定重要文化財


舞殿」。
賀茂祭(葵祭)で勅使御祭文を奏上し、
東游が奉納される舞殿
こちらも寛永5年(1628)再建で、
同じく21年ことに解体修理がされます。
以下の建物も同様です。
国指定重要文化財。


四脚中門」。
切妻造檜皮葺の四脚中門で、
両側に雅楽を奏した楽屋が付属。
この門を抜けた先に幣殿があり、
その前庭に干支を祀る小社があります。
国指定重要文化財。


幣殿」。
中央軒唐破風入母屋造檜皮葺の幣殿で、
一般の参拝はここまで。
奥には東西の本殿が鎮座しており、
西本殿東本殿共に国宝です。
西本殿に賀茂建角身命を祀り、
東本殿に玉依媛命を祀っており、
この二神は賀茂別雷命の母神と祖父神。
賀茂別雷命は上賀茂神社の主祭神。
つまり加茂の祖神を祀る神社で、
加茂御祖神社ということらしい。
幣殿は国指定重要文化財。

四脚中門を出て舞殿の西側へ。

神服殿」。
夏と冬の御神服を奉製する神服殿
勅使殿着到殿としても使用され、
行幸の際の玉座にもなったとのこと。
国指定重要文化財。


橋殿」。
御蔭祭の際に御神宝を奉安する橋殿
奏楽里神楽倭舞等が行われたとされ、
行幸の際は公卿らの控所となりました。
国指定重要文化財。


細殿」。
歴代天皇の行幸の際の安在所とされ、
細殿御所とも呼ばれています。
鴨社歌会が度々催された場所で、
孝明天皇加茂行幸の際には、
14代将軍徳川家茂の侍所となりました。
国指定重要文化財。


御手洗社と御手洗池」。
瀬織津姫命を祀る御手洗神社と、
社殿前の御手洗池
社殿の下から水が湧き出しており、
井の上にある事から井上社とも呼ばれます。
土用の丑の日に池に足を浸けると、
病気にならないとされているようで、
[足つけ神事]が行われるとのこと。
またこの池の水の泡をかたどり、
みたらし団子が作られるようになり、
[みたらし団子発祥の地]にもなっています。

文久3年3月11日。
攘夷祈願の為に孝明天皇鳳輦に乗り、
建礼門から御所を出て賀茂行幸に出発。
天皇の御所外への行幸は212年ぶりで、
その前の行幸は慶安4年(1651)とされ、
後光明天皇仙洞御所へ行幸して以来でした。
関白鷹司輔煕以下53名の公卿と、
将軍徳川家茂一橋慶喜ら武家が付き従い、
昼四ッ半(午前11時)頃に加茂御祖神社に到着。
鳳輦は境内を四脚中門前まで進み、
孝明天皇はそこで鳳輦を下り、
幣殿まで徒歩で歩き拝礼を行っています。
その後に賀茂別雷神社へも行幸。
夜半に御所へ帰着しました。

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