知恩寺は浄土宗の大本山寺院で、
現在は百萬遍知恩寺と称しています。
元弘元年(1331)に疫病が蔓延した際、
知恩寺8世善阿空円が念仏百万遍を行い、
これを鎮めた事から後醍醐天皇より、
[百万遍]の号が下賜。
その後も知恩寺が正式名称でしたが、
知恩院や三時知恩寺との区別の為、
百萬遍知恩寺を正式名称としました。
※令和元年に名称変更。
「総門」。
なにか様子がおかしいと思ったら、
何と訪問時は古本まつり!。
なんでもフリマ会場とされる事が多く、
特に古本まつりは大規模とのこと。
総門は寛文2年(1662)再建で、
国指定重要文化財。
「御影堂」。
参道正面の御影堂は宝暦6年(1756年)再建。
知恩院の御影堂はこの御影堂を拡大し、
建立されたものとされています。
国指定重要文化財。
「釈迦堂」。
智恩寺の本堂で寛文4年(1664)の再建。
本尊は丈六の釈迦如来坐像で、
慈覚大師円仁の作とされています。
フリマ関係者が座ったりしていますが、
本堂ですので敬意を払ってもらいたもの。
中央にないのが原因でしょうか?
国指定重要文化財。
[阿弥陀堂]も同様な状態で、
釈迦堂より酷かったので撮影は断念。
こちらも国指定重文です。
「本坊」。
御影堂の裏手は静かでした。
この奥に庫裏や方丈、庭園がある模様。
本坊の横から知恩寺墓地へ。
「御廟」。
法然上人と源智上人の御廟。
法然上人は天台宗の僧侶でしたが、
[南無阿弥陀仏]と念仏を唱えれば、
死後は平等に往生できると説き、
新たに浄土宗を開宗します。
しかし比叡山と対立する事となり、
後鳥羽上皇により隠岐に配流。
後に讃岐国に移されてから許され、
大谷禅房(現知恩院勢至堂)で死去しました。
遺骨は知恩院の御廟にあるようなので、
拝墓か分骨墓なのでしょう。
源智上人は法然没後の浄土宗を支え、
比叡山僧徒の弾圧(嘉禄の法難)にも耐え、
宗派の維持に努めました。
源智上人の没した功徳院が、
現在地に移転して知恩寺となっており、
知恩寺では一世を法然として、
二世を源智としています。
知恩寺墓地には鳥居元忠の墓もあります。
「鳥居元忠墓所」。
元忠は伏見城の戦いで討死(又は自刃)し、
首級は大坂で晒されましたが、
親交のあった町人佐野四郎右衛門が、
晒されていた首級を盗み出し、
智恩寺の塔頭長源院に葬ったとされます。
現在元忠の位牌は龍見院にあるとのこと。
「龍見院殿賀岳宗慶大禅定」。
壬生藩鳥居家藩祖鳥居元忠の墓。
元忠は松平家家臣鳥居忠吉の三男で、
徳川家康が今川家の人質だった頃より、
側近の一人となっていました。
父の死去に伴い家督を相続し、
家康の主な戦いには必ず参加しており、
絶大なる信頼を家康から受けていました。
慶長5年(1600)の会津征伐では、
僅か1800の兵で伏見城を任され、
家康と深夜まで酒を酌み交わして別れて、
籠城して西軍4万と戦いました。
元忠は鈴木重朝に討ち取られますが、
西軍は10日間伏見城に釘付けされて、
東軍にとって大きな時間稼ぎとなります。
これが東軍勝利の一因のひとつとなり、
徳川幕府成立の礎となりました。
嫡男鳥居忠政は後に22万石を与えられ、
幕府は元忠の忠孝に報いており、
更に孫の鳥居忠恒や玄孫鳥居忠則が、
後の世で不行跡を起しても改易されず、
先祖の勲功を鑑みて断絶を免れています。
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