吉井宿は筑後街道の宿場町。
筑後街道は日田往還のひとつで、
久留米と日田を結ぶ直線的な街道で、
吉井宿はその中心に位置しています。
有馬藩有数の穀倉地帯だったようで、
地主商人達の店が軒を連ねていました。
うきは市吉井町周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが吉井宿跡。
東側より散策。
「上町」。
白壁土蔵造の商家が並びます。
吉井宿は寛延元年(1748)、文化12年(1815)、
そして明治2年に大火に見舞われており、
その度に商人達は立派な白壁の商家を、
競うように建てたという。
国道を車で走るとタイムスリップしたように、
いきなり宿場が現れるようで驚きます。
重要伝統的建造物群保存地区。
「街並み交流館(旧松源商店)」。
元禄3年(1690)創業の乾物魚類問屋の建物。
在方では冠婚葬祭の際には、
まず[松源]で諸材料を揃えるたとされ、
筑後で知られた老舗中の老舗だったという。
街道を外れて上町交差点より北上。
[白壁通り]と呼ばれる通りへ。
「白壁通り」。
白壁土蔵造の重厚な街並みが残る通り。
年中様々なイベントが行われるとのこと。
北上してしばらくすると道は右へ曲がり、
更に少し行くと[南新川]に合流。
「南新川」。
この辺りは350年程前は水が乏しく、
日照りで作物が実らず餓死者が多く出て、
人々は非常に困っていました。
これを見かねた五人の庄屋は、
久留米藩に用水路工事を願い出ますが、
難工事が予想された為に、
藩はこれを許可しませんでした。
そこで五庄屋は費用は自分らが負担し、
工事が失敗して迷惑が掛かった際は、
死罪となっても構わないと嘆願。
5つの磔台が建てられたうえで、
寛文4年(1664年)に工事が認められます。
これを見て[五庄屋どんを殺すな]と、
老若男女が一丸となって工事を手伝い、
僅か2か月余で水路は完成。
この水路(南新川)によって土地は潤い、
周辺は一大穀倉地帯となりました。
川の水は田畑を潤しただけではなく、
それを利用した水車や唐臼が造られ、
精米、製粉、製麺の他に、
酒造、櫨蝋、菜種油造りにも利用され、
商業も大きく発展させています。
「鏡田屋敷」。
町内に唯一現存する屋敷型建造物で、
文久3年に郡役所として建てられたもの。
明治26年に増築されており、
これが現在の姿となっています。
[鏡田]の名の由来はどこにも記載がなく、
調べても判りませんでした。
街道筋に戻って西方向へ。
「中町」。
中町も相変わらず白壁の商家が続きます。
残念な事に国道210号線沿いである為、
交通量が多くゆっくり散策とはなりません。
「札の辻の庚申塔」。
札の辻にあったとされる庚申塔。
現在は札の辻ではなく、
中町の交差点に移動しています。
「札の辻」。
交差点名が[札の辻]なのが判りやすい。
高札場が置かれた賑やかな場所とされます。
「本町」。
札の辻を過ぎれば本町。
これまで南側に商家が現存していましたが、
ここらは北側に商家が連なっています。
「堺町」。
緩やかなS字カーブとなっており、
一応は桝形のようです。
「天神町」。
吉井宿の西側は天神町。
名称から天満宮に由来するようですが、
現在は高橋神社に合祀された模様。
「高橋」。
巨瀬川に掛かる高橋。
吉井宿の西端のようです。
思った以上に見ごたえのある宿場跡。
建物は明治期のものが殆どですが、
大変に栄えていたこと伺えます。
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