日本初の西洋料理を開いた草野丈吉

元治元年8月27日、
長州藩四国連合艦隊との講和会議後、
アーネスト・サトウを下関に招待し、
西洋風料理で接待していますが、
この料理をサトウは良い評価を出していません。
あくまで「西洋風」というだけで、
ちゃんとしたものではなかったでしょう。
実はこれより1年前の文久3年、
長崎本格的西洋料理店が開店しています。

長崎の農家の倅であった草野丈吉は、
安政6年より出島でボーイとして雇われます。

草野丈吉

出島での日々の雑用から蘭語を覚え、
その働きぶりから軍艦で勤務することとなり、
軍艦での雑用、洗濯係を経て、
丈吉は見習いコックとなりました。
やがて正式なコックと認められるようになると、
出島の蘭館の専属コックとなります。

その後に結婚を機に独立し、
自宅を改造した西洋料理店「良林亭」を開業。
六畳一間の狭い店舗ながら大繁盛します。
長崎奉行の外国人接待の出張料理もこなし、
薩摩土佐などの諸藩士も足しげく通いました。
そんなことで店舗が手狭になり、
名前も「自遊亭(後に自由亭)」と変更し、
狭い店舗から大きな新築に移転します。

常連の中には薩摩藩士五代才助友厚)がおり、
丈吉の料理と人柄に惚れこんた五代から、
大阪外国人居留地止宿所の所長に任命されて、
大阪に赴くことになります。
しかし丈吉は1年も経つと独立し、
ホテル兼西洋料理店欧風亭ホテルを開店。
独立とはいえ官より多額の援助をされており、
ホテル経営は依頼されたものであったようです。

「欧風亭ホテル」は順調に営業し、
翌年には新築の店舗に移転。
名前も「自由亭ホテル」と称しました。
このホテルが大阪の迎賓館的役目を担い、
ロシア皇太子明治天皇の晩餐に使われました。


自由亭ホテル

丈吉は居留地が閉鎖される明治19年に死去。
ホテル経営は娘の草野錦が引き継ぎ、
大阪ホテル」と改名した後、
大阪倶楽部へ売却され、
2度の火災の後に閉鎖されました。


大阪ホテル

日本で最初の西洋料理店を開いた丈吉は、
大阪最初の西洋式ホテル創業者でもありました。

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