山陽小野田市に青木周蔵誕生地があります。
青木周蔵は蘭学医青木研蔵の婿養子となり、
維新後は外務省に入って外交に尽力し、
条約改正に成功した外務大臣ですが、
エリザベートとのロマンスの方が有名。
青木研蔵の娘テルを妻としていた周蔵は、
エリザベートとの結婚のために、
テルと離縁する事を望みますが、
もちろん青木家はこれを許さない。
もつれにもつれた話し合いの結果、
新しい夫を見つけ結納金を払う事を条件に、
青木を名乗ったまま結婚を許されました。
これは美談のように語られますが、
テルはたまったもんじゃないですね。
埴生から山陽本線の高架をくぐり小埴生へ。
ビニールハウスの前に看板があります。
「故外務大臣青木子爵誕生地記念」。
看板から歩いてすぐの所にあります。
周蔵の実父は埴生の村医三浦玄仲。
父の玄仲は村医でありながら、
西洋医学に理解のある人物とされ、
玄仲が種痘医となった事をきっかけに、
青木周弼と研蔵の知故を得て、
その才能を買われて婿養子となりました。
玄仲が藤曲村(宇部市藤曲)に移居するまで、
当時団七と呼ばれていた周蔵は、
6歳までここで暮らしました。
青木研蔵の養子となった後、
周弼と研蔵の一字を貰い周蔵と名乗ります。
明治元年に藩費でドイツに留学しますが、
医学より政治経済に興味が移って、
専攻科目を無断で変えてしまいます。
帰国後の明治6年に外務省に出仕し、
駐独代理公使から駐独公使に任命。
その頃にエリザベートと知り合います。
彼女との結婚には困難がありましたが、
幾多の困難を乗り越えて結婚。
後に外務大臣等を歴任し、
不平等条約改正に尽力します。
近くには幕末には関係ないですが、
和泉式部の墓がありました。
和泉式部の墓は全国にあったりしますが、
その中の一つとのこと。
青木周蔵誕生地のすぐ近くにあります。
墓所入り口には、
「あらざるむ この世のほかの思い出に
今ひとたびの 逢ふこともがな」
の歌碑が建てられています。
「和泉式部の墓所」。
歌碑の奥に丘があり、
その上に墓が建てられています。
なんとも信憑性の薄い話ですが、
まあロマンでしょうかね・・・。
団七少年はここが和泉式部の墓だと、
両親や村民に聞いていたのかな?
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