慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いにおいて、
薩摩藩本営東寺に錦旗が揚げられます。
これにより幕府方の諸藩は朝敵となる事を恐れ、
退却や寝返りが多発。
鳥羽伏見の戦いは、新政府軍の勝利に終わりました。
もともと「錦の御旗」は、朝敵討伐の証として、
天皇が官軍の大将に与える旗ですが、
天皇がその御旗を所持していて、
実際にその大将に与えるわけではなく、
勅命を受けた大将が自ら用意するものでした。
鳥羽伏見の戦いの際に揚げられた錦の御旗も、
もちろん新政府が用意しています。
岩倉具視が大久保利通と品川弥二郎に制作を依頼。
すでに朝廷から討幕の密勅は出され、
「官賊の区別」はついていましたが、
末端までそれは伝わってはいないわけで、
それをいち早く敵味方全軍に知らしめるに、
この錦旗が最大の効果を発揮しました。
もちろん「錦の御旗」は誰も知ってはいません。
敵陣営に揚がった見慣れぬ旗を調べさせ、
はじめてそれが官軍の旗だと知ったのでしょう。
戦において敵の旗印を確認することは、
最重要の情報のひとつでしたので。
兵「赤字に金の見慣れぬ旗印が挙がっております」
将「なんじゃ?調べてまいれ!」
兵「はっ!」
・・・・・・
兵「わかりました!『錦の御旗』と呼ばれる旗のようです!」
将「そうか・・うん?・・錦の御旗・・なぬ?
では我々は賊軍になってしまうではないか!」
兵「そのようで」
将「た、退却じゃ~!」
と、このようなやりとりがあったかは知りませんが、
そんな感じで幕軍は撤退するわけです。
で、その「錦の御旗」ですが、
誰もそれがどんなものかわからない。
なんたって最後に揚ったのは室町時代なのですから。
しかたないので、岩倉の腹心の国学者玉松操がデザインし、
大久保の妾おゆうが京都市中で大和錦と紅白の緞子を購入。
京都薩摩藩邸で制作しました。これが東寺の錦旗です。
品川も大久保から大和錦と紅白の緞子を譲りうけて、
それを国元に持ち帰って錦旗を制作します。
今回行ったのはその「錦の御旗」を制作した場所です。
山口市街周辺(錦の御旗製作所跡の場所)。
市街中心部を流れる一の坂川のほとりに、
錦の御旗製作所跡があります。
「錦旗製作所址」。
ここに藩営の養蚕所「水ノ上養蚕局」がありました。
品川が持ち帰った大和錦と紅白の緞子は、
ここで「錦の御旗」に変わったようです。
品川は岡吉春という藩士に制作を依頼するのですが、
岡は職人ではなかったでしょうから、
制作の指揮をした人物なのでしょう。
薩摩藩が使用する錦旗は京都藩邸で制作されたのですが、
長州藩が使う錦旗を薩摩藩に依頼するわけにいきません。
※プライドや今後の力関係を鑑みて、
錦旗を薩摩に依頼するわけにはいかなかった。
京都で制作を依頼するには機密が漏れる危険がある。
長州の京都藩邸はすでに無いわけで、
国元に持って帰って制作するより他はありませんでした。
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