飯田正伯は松下村塾の中でも2番目に年長で、
もちろん吉田松陰よりも年上でした。
藩医の家出身の正伯は初め医学を学びますが、
次第に兵学に興味を持ち、
松下村塾に通って山鹿流軍学を学びます。
松陰に師事した期間は約1ヶ月余りと短く、
堅い絆とは言えませんが、
松陰が伝馬町に入獄した際に江戸にいた為、
晋作や尾寺新之丞らと共に、
見舞いや賄賂の調達に奔走しています。
※晋作は松陰処刑前に帰国。
松陰も彼等を頼り、死後の遺体引き取りや、
世話になった人へのお礼などを頼んでいます。
遺体は桂小五郎、伊藤俊輔、尾寺新之丞、
そして飯田正伯が小塚原回向院で引き取り、
血に汚れた死体を清めて葬りました。
飯田正伯の墓所は萩市の常念寺。
国指定重文の山門を持つ由緒正しきお寺です。
「常念寺山門」。
山門は国指定重要文化財。
豊臣秀吉が建設した聚楽第の遺構という。
「本堂」。
常念寺は萩城築城の際、
毛利輝元の宿営地となった寺で、
当時は現在地よりも少し北側にあったらしい。
宿営地であった事が縁で、
上記の山門が寄進されたようです。
本堂の裏に墓地がありますが、
お目当ての飯田正伯の墓は見当たらず。
お寺の方に訪ねて教えて頂きました。
「飯田家先祖代々墓」。
こちらが飯田正伯の墓。
これは聞かないとわかりませんね。
本堂のちょうど真裏あたりです。
松陰の死後は藩の分析御用掛となり、
主に藩の兵器の管理・調整を行いましたが、
万延元年に浦賀の法善寺を襲い、
軍用金を調達しようとして幕吏に捕えられ、
文久2年に獄死しました。
この墓は、親族によって建てられたもの。
「贈正五位 福井太郎源信彰之墓」。
位階付きの墓があったので調べてみると、
干城隊の小隊司令福井信彰の墓でした。
福井は長崎で銃陣を学んでおり、
帰国後に練兵教授に就任。
壬戌丸乗組、大組物頭役、藩主近侍、
足軽中隊長を経て、干城隊の軍監となります。
慶応4年の戊辰戦争では北越戦争に出征し、
稲葉村の戦いで戦死しました。
新潟の船岡山官軍墓地にも墓碑があります。
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