松門四天王の入江九一の墓所は長寿寺。
他にも幕末の動乱で散った志士の墓があり、
少々マニアックな幕末ファンならば、
是非とも訪問するべき寺でしょう。
「長寿寺本堂」。
長寿寺は[抜け寺]の愛称があり、
本堂と鐘楼の間を通り抜け、
寺の裏の道に抜けることができます。
長寿寺は大きな敷地を持っており、
裏側に行くには迂回の必要がありましたが、
長寿寺を抜ければ非常に近くなるので、
敷地を開放して通らせていたとのこと。
本堂左手に納骨堂があり、
その手前に石碑があります。
「河上繁義君碑銘」。
奇兵隊2代総督河上弥一顕彰碑。
河上は高杉晋作の奇兵隊創設に参加し、
晋作が教法寺事件で総督を解任されると、
滝弥太郎と共に2代奇兵隊総督となります。
しかし平野国臣と共に七卿の沢宜嘉を擁し、
奇兵隊士7名と共に脱走して生野で挙兵。
姫路藩、出石藩等の追討軍により壊滅し、
妙見山下で同志12名と共に自刃しました。
碑文は山田顕義。
「贈従四位 河上弥市墳」。
石碑のわきに小さく建っているのが墓碑。
石碑が大きくてつり合いがとれていません。
抜け寺の由来の本堂と鐘楼の間を抜けると、
広い敷地の墓地があらわれます。
墓地は鐘楼裏側の一帯と、
本堂裏一帯に分かれており、
本堂裏の方に入江の墓がありました。
「入江音次郎弘剛之墓(左)」、
「入江九一夫人堀氏之墓(左2)」、
「贈正四位入江九一弘毅之墓(中央)」、
「入江嘉伝次夫婦之墓(右2)」、
「入江氏先祖合葬之墓(右)」。
特徴ある5基の笠塔婆はすぐわかります。
入江九一は弟和作に誘われ松下村塾に入門。
入門時期は遅いものの松陰に高く評価され、
門下の四天王に数えられました。
松陰が間部詮勝の暗殺を計画すると、
多くの門下はこれに反対していますが、
九一は弟和作と共に賛同してこれを助け、
藩によって岩倉獄に収監されています。
松陰の処刑後に許されて士分となり、
光明寺党や奇兵隊の創設に参加。
久坂玄瑞と共に禁門の変に参加しますが、
鷹司邸からの脱出の際に討死しました。
入江音次郎は九一の妻粂の実弟で養子。
明治6年に米国留学中に客死しています。
入江嘉伝次は九一の実父。
入江家の墓所は簡単に見つかりましたが、
他の墓を見つけるのは一苦労。
なかなか探せずにいたところ、
掃除をしていたご住職が声を掛けて下さり、
内藤作兵衛と佐久間左兵衛の墓を訪ねると、
マニアックな人物を知ってるねと、
墓地内を案内してくれました。
「内藤作兵衛の墓」。
まずは柳生新陰流指南内藤作兵衛の墓。
鐘楼の裏側の一帯にあります。
墓の場所の案内だけにとどまらず、
住職さんに色々とご説明頂きました。
灯篭台には知った名が・・。
右側の灯篭台。右から、
木戸孝允、井上逸叟、重見澤人、諫早主二、
兒玉愛次郎、大田左門、勝田四方蔵。
木戸孝允は桂小五郎。
井上逸叟は鉄道の父井上勝の実父。
兒玉愛次郎は井上聞多を襲撃した人物。
大田左門は毛利登人の実父。
勝田四方蔵は後の陸軍中将。
重見澤人と諫早主二よくわかりません。
左側の灯篭台。右から、
福原芳山、岡義亮、井上斎治、児玉少介、
遠田六郎、粟屋貞一、内藤恒弘
福原芳山は日本初の法廷弁護士で、
三家老福原越後の次代。
児玉少介は後の元老院議官、
貴族院勅選議員。
粟屋貞一は毛利家の蝦夷地開拓団団長。
岡義亮、井上斎治、内藤恒弘は、
どのような人物かはよくわかりません。
当時の名のある方々なわけですが、
柳生新陰流剣術指南だったので、
政府に出仕する元長州藩士の師匠な訳です。
もちろん高杉晋作の師でもあり、
明治政府トップの一人となった木戸孝允が、
上京した内藤を馬車に乗せて、
歩いて随行したという逸話もあります。
木戸らしい話ですね。
内藤は廃刀令後も腰に刀を帯びていました。
剣術に生涯を捧げた男として当然の事で、
萩の行政も師に刀を捨てろとは言えません。
刀を差した内藤爺は知られていましたし、
刀を振り回すわけでもなく、
何ら平穏に過ごしていました。
しかし反乱が起こったことにより、
刀を差した内藤爺に悲劇が訪れます。
萩では内藤爺は有名な存在でしたが、
反乱鎮圧に来た一般兵は内藤の事を知らず、
刀を帯びた内藤爺を反乱の暴徒と誤認し、
一般兵が射殺してしまいます。
後に木戸はその不慮の事故を傷み、
自宅で法事を開いたという。
「佐久間家先祖合葬墓」。
甲子殉難十一烈士のひとりで、
四参謀のひとり佐久間佐兵衛の墓。
佐久間は幼少の頃より勉学に励み、
遊学して水戸の会沢正志斎に学び、
帰国後は藩校明倫館の塾頭兼助教に就任。
その後は藩重職を歴任しますが、
長州軍の京進発で福原隊参謀として従軍し、
負傷した福原越後に代わって軍を指揮。
帰国後は俗論党によって身柄を拘束されて、
野山獄で斬首されました。
墓地でなにやら探している様子の僕に、
誰かの墓をお探しかな?と、
声を掛けてくれたご住職。
とても親切に教えてくれました。
敷地を開放したのは当時の住職ですが、
現住職も優しさを受け継いでおられました。
■関連記事■
・山口県長門市 周布政之助墓所
長門市にある周布政之助の墓所。
・山口県萩市 常念寺/飯田正伯墓所
松陰門下飯田正伯の墓。
・山口県萩市 弘法寺/前原一誠墓所
松陰門下前原一誠の墓。
長寿寺のご住職はとても親切です。私は親戚の墓を訪ねた時場所を案内してくださり、
またその一族の墓があることも教えてくださりました。
わがやの先祖の墓はお寺に伺っても、住職留守でわからず、墓所半日かかって、息子と丁寧に探してもなく、
再度尋ねたら、下寺ではないですか」「下寺はどこですか?」のやり取りで、また、下寺の墓石を1か所ずつ
メモしながら探して、同姓が2か所、1か所は明治の彫文字があるので違うだろう、、(我が家は明治以降の
墓所は関東に4代納められている)もう1か所は墓石が丁寧に並べられて、管理されているように見えて、
息子が違うだろう、寺間違い?となりました。単なる墓参が丸1日仕事で確認に至らず、でした。
さらに2年後長寿寺も訪ねたら、ご住職が位牌堂にもご先祖が置かれてます、とねたら覚えておられて、新しい情報も下さり、大変心温まる墓参ができました。
コメントありがとうございます。
だいぶ前の話になるのですが、外見から人柄が現れるような住職さんでした。
私見ですがお寺は神社と比べると部外者が入り辛く、
住職が法事なども多く不在だったりすることも多いですね。
居合わせても意外に不親切だったりする事があります。
※もちろん一部で、親切な住職さんもいます。
お寺も生活や維持に費用が掛かりますので、
檀家でもないただの観光客や親戚に手を煩わす暇もないでしょうに、
親身になって頂けると、大変うれしいものですね。
江戸期に萩、明治期より関東とのことですが、
藩士の家系なのでしょうか?
生活圏が関東で墓参りもままならないと、
墓所を関東に移す家も多くあるようですが、
故郷というものは良いものです。
毎年でなくても、何年に1度か故郷の先祖の墓参りするのは、
とても素晴らしい事ではないでしょうか?
また遊びに来て下さいませ。