神奈川県横浜市 諸外国の領事館跡

安政6年に横浜港が開港されると、
各国の領事館などが設けられるわけですが、
元々横浜は東海道から外れており、
基本的には交通に不便な場所でしたので、
諸外国は東海道沿いの神奈川宿に、
領事館を設けることを幕府に求めました。
領事館には神奈川宿の各寺院が充てられ、
後に横浜が急速に発展するまでに、
各国は領事館を神奈川宿周辺に置きました。

今回は仕事で相模原に行くことがあり、
横浜で乗り換える機会が出来ましたので、
駅を出て領事館跡巡りをしました。

神奈川周辺(今回の領事館跡巡りコース)。

まずは京急仲木戸駅で下車し、
線路の北側を歩いて慶運寺へ。

慶運寺(地図A)」。
浦島寺とも呼ばれる浦島太郎ゆかりの寺。
元々は観福寿寺という寺が、
浦島ゆかりの寺だったのですが、
明治5年にその観福寿寺が廃寺となり、
慶運寺に統合された為に、
その伝説も引き継いだとの事。


史跡 フランス領事館跡」。
慶運寺は開港当時のフランス領事館
初代在日フランス領事は、
G・デュシェーヌ・ド・ベルクール
副領事はジョゼ・ルーレイロでした。

高架をくぐって南側の成仏寺へ。

成仏寺(地図B)」。
宣教師達の宿舎として使われた寺院。
ヘボン式ローマ字の考案者J・C・ヘボンや、
サミュエル・ブラウンジェームス・バラ
ジョナサン・ゴーブル等がここに宿泊。
彼らは本堂の仏像をどう思うのでしょう?


史跡 外国宣教師宿舎跡」。
聖書の日本語訳もここで行われ、
日本語塾も開かれました。
英国外交官アーネスト・サトウも、
ここで日本語を学んだという。

川を渡って西側の浄龍寺へ。

浄龍寺(地図C)」。
イギリス領事館が置かれた浄龍寺。
初代総領事はラザフォード・オールコック
彼は外国人初の富士山登頂者です。


史跡 イギリス領事館跡」。

川沿いを進む。

滝ノ橋と本陣跡(写真D)」。
滝ノ橋は神奈川宿のランドマーク。
現在の「滝の橋」より少し北側です。
面影は川くらいなものですが、
これは仕方ないでしょう。


当時の滝ノ橋の様子。
この辺りは東海道の宿場町として、
相当栄えていたのが伺えます。
すぐそこまで海だったようですね。

首都高を越えて南東方向へ。

史跡 神奈川台場跡(地図E)」。
横浜開港に伴い台場の建設される事となり、
伊予松山藩がこれを担当しました。
碑の後ろに見える石垣が当時の遺構。

首都高に戻り権現山城跡に沿って甚行寺へ。

甚行寺(地図F)」。
フランス公使館が置かれた寺院。
先ほどの慶運寺が領事館でこちらは公使館。
領事館はその国にいる自国民の保護や、
通商関係の援助を行う場所で、
公使館は外交使節が外交を行う施設です。

線路の上を通る青木橋を渡って本覺寺へ。

本覺寺(地図G)」。
アメリカ領事館が置かれた本覺寺。
米国は高台のこの寺を領事館としました。
初代領事はタウンゼント・ハリスですが、
ここに領事館が置かれた際は、
イーベン・ドールが領事に任命されてます。

領事館を接収した米国領事館員達は、
本覺寺を白いペンキで塗装しました。
空襲によって塗られた建物は失われますが、
山門鐘楼堂に少し跡があります。

山門のペンキ跡。
唐獅子に白いペンキらしき跡が。
借り物にペンキ塗るなんて酷いですね。


史跡 アメリカ領事館跡」。
領事館として使用されたのは3年間。
寺僧らは退去させられ、
本尊は板囲いで覆って塞がれ、
庶民の立ち入りが禁止されました。
先に書いたようにペンキで至る所を塗られ、
酷い有様だったようです。
挙句に空襲で建物の殆どを燃やされ、
米国人に酷い目に合わされた寺院でした。

と、こんな感じで領事館跡巡りは終了。
もうひとつ神奈川新町に、
オランダ領事館跡」があるのですが、
スタートとは反対方向なんで、
今回は行きませんでした

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