山口県周南市 大成寺/徳山藩毛利家墓所①

①/

徳山藩毛利輝元の次男毛利就隆が、
3万石を分与されて興した長州藩の支藩。
はじめは下松を藩庁としましたが、
交通が不便であった為に藩庁を移し、
地名を徳山と改めています。
3代毛利元次が宗家と領界争論を起こし、
主家に背いたとして改易処分となりますが、
後に子の毛利元尭が再興しており、
以後は宗家と良好な関係を築き、
江戸後期には城主格大名となりました。


大成寺」。
大成寺は徳山毛利家の菩提寺。
京都妙心寺塔頭竜華院竺印和尚を招き、
中興開山として創建され、
歴代藩主の菩提寺となっています。

大成寺の裏手にある徳山毛利家の墓所へ。

徳山毛利家墓所」。
木製の鳥居が目印。
この奥の小高い丘の上が墓所。


墓所はほぼ直線状に伸びており、
笠塔婆型の墓石が並びます。


巖性院殿前権日州太守行
 従五位下怱生本然大居士」。
初代藩主毛利就隆の墓。
毛利輝元の次男として生まれ、
幼少期は人質として江戸に滞在し、
寛永11年(1634)に下松藩を立藩。
長府藩初代毛利秀元と独立を企てますが、
宗家の毛利秀就によって阻まれており、
普請の件でも宗家に反抗的であったという。
後に長府藩とも正室離縁騒動で不仲となり、
宗家や長府藩との仲は悪いまま受け継がれ、
これが後の代まで続きました。
藩庁を下松から野上に移して徳山と改称し、
以後は徳山藩となっています。
延宝7年(1679)に78歳で死去。


大陽院殿前日州刺史玉峰澄和大居士」。
2代藩主毛利元賢の墓。
初代就隆の四男として生まれましたが、
3人の兄が相次いで早逝した為、
継嗣となって父の死後に家督を相続。
僅か10歳で藩主となった為、
藩政は家老らによって取り仕切られ、
初の御国入りは就任から9年の後でしたが、
病を得て21歳で死去しています。


性雲院殿圓貞理融大姉 淑霊」。
就隆の側室性雲院の墓。
霊屋付きの墓は就隆とこの性雲院の墓のみ。
京都紺屋の娘だったようで、
就隆の継室禅海院の従女でしたが、
3代藩主毛利元次の生母となり、
元次によって立派な墓が建てられました。


曹源院殿朝散大夫前飛州刺史
 性海滴水大居士」。
3代藩主毛利元次の墓。
母の性雲院の身分が低かった為、
庶子として藩士の永井家で育てられます。
しかし2代元賢が継嗣なく死去した為、
急遽養嫡子として家督を相続。
筆頭家老桂家、次席家老神村家を断絶させ、
藩主の実権強化を図りました。
宗家との領界紛争でも一歩も引かず、
これが幕府の耳にまで届いて徳山藩は改易。
元次の身柄は出羽新庄藩に移され、
同藩の京都屋敷で死去しています。


豪徳院殿朝散大夫前日州刺史
 家山紹運大居士」。
4代藩主毛利元尭の墓。
3代元次の次男として生まれますが、
徳山藩は改易されてしまいます。
後に家臣団や他毛利家の再興運動により、
幕府に許されて徳山藩は再興。
藩主となって再建を志しますが、
参勤中に疱瘡を患い20歳で死去しました。


天了院殿朝散大夫前山州刺史
 廓翁湛然大居士」。
5代藩主毛利広豊の墓。
3代元次の三男として生まれ、
徳山藩改易中は萩に身柄を預けられており。
元堯が再興を果たしますが急死した為、
家督を継いで藩主に就任。
幼少の長府藩主毛利匡広後見役となり、
暫くの間は政務を預かっています。
37年の治世の後に隠居していますが、
その間に二十三男二十三女を儲けており、
非常に好色家であったという。

つづく。
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山口県周南市 大成寺/徳山藩毛利家墓所①」への2件のフィードバック

    1. kii 投稿作成者

      >赤間ヶ関住人様
      ご指摘のとおりです。修正致しました。ありがとうございます。
      同じく赤間ヶ関住人でありながら、そこを間違うとはお恥ずかしい。

      返信

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