熊本県苓北町 富岡城(富岡陣屋)跡②

つづき。
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富岡城二の丸駐車場より坂を登ると、
二ノ丸跡の石垣が見えてきます。

二ノ丸石垣」。
富岡城は大きな城ではありませんが、
天草四郎率いる一揆勢の猛攻に耐えています。


石垣が不規則で珍しいなと思ったら、
これは3重構造の石垣を上手に残して再現されたもの。
1番奥が唐津藩時代のもので、攻城の痕跡が残る石垣。
2番目がその石垣を隠す為に急増された封印石垣で、
外側の石垣が山崎家治が修復したもの。

順路の立札に従って左に進み、
出丸跡を越えて二ノ丸跡へ。

二ノ丸跡」。
一揆勢は北の出丸まで陥落させますが、
この二ノ丸は落とせなかったようです。
先ほどの石垣痕跡を見ても、激しい攻撃があった様子で、
守備方は二ノ丸を死守して一揆勢を防いだのでしょう。

ちなみに富岡城代の三宅重利は、
一揆勢と本渡(今の天草市街)で戦って敗れ、
討ち取られていました。
つまり城の大将である城代を欠いていたわけで、
大将不在で一揆勢の猛攻に耐えたということです。

城への攻撃は数時に渡り行われたとのことですが、
討伐軍の来襲の知らせがもたらされた為、
挟み撃ちとなる事を恐れて攻城を諦め、
一揆勢は島原半島に移動しました。

二ノ丸跡には4体の天草ゆかりの人物らの像が・・。

鈴木重成」像(左)と「鈴木正三」像(右)。
初代天草代官鈴木重成とその兄鈴木正三の銅像。
重成については前回(記事はこちら)記載しています。
鈴木家は父鈴木重次の代より徳川家に仕えた旗本で、
三河武士で常に生死を身近に感じていた為か、
兄の正三は仏教に傾倒し、
家督は弟の重成に継がせていましたが、
別家を興して関ケ原の戦い大坂の陣に従軍し、
その後出家して仏教の布教に努めます。
弟の重成が天草代官に任じられると、
政策顧問として天草へ赴いて諸寺院復興に努め、
破切支丹」を執筆して切支丹領民の棄教を即し、
仏教による領民の心の安定に尽くしました。


勝海舟」像(左)「頼山陽」像(右)。
勝海舟長崎海軍伝習所の航海訓練で、
2度も富岡を訪れており、宿泊した鎮道寺には、
勝の落書きが残されています 。
頼山陽も富岡を訪れて、天草湾の美しさに感動し、
泊天草洋」を吟じました。


二ノ丸跡と本丸跡の間の東側には、
大規模な枡形虎口がありました。
本来はこちらが正門だったようで、
下ると三ノ丸跡に至ります。


本丸への登城口。
富岡城の本丸は、非常に狭い郭でしたが、
下から見上げると結構な広さに感じられ、
大きな二重多聞櫓がその役目を果たしています。


富岡ビジターセンター」。
本丸跡に復元された多聞櫓は、
富岡ビジターセンターとなっており、
天草についての展示がされていました。
不思議なのは、外から見ると二階櫓なのですが、
本丸から入ると一階建になっています。
地下階があるのか?
それとも疑似的な造りなのでしょうか?

富岡城は戸田忠昌によって廃城となり、
三ノ丸跡に陣屋が設けられて富岡陣屋となりました。
その後、天草が天領となると天草代官所が置かれ、
代官所陣屋となって以降、天草行政の拠点となり、
維新後は新政府に徴収されて、
陣屋がそのまま天草県庁となっています。
※その後、わずか4ヶ月で長崎府に編入されて、
富岡陣屋(天草県庁)は廃棄されました。


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