小野藩一柳家の菩提寺光明寺は、
鎌倉時代後期に建立された臨済宗の寺。
一柳家が小野を藩庁に定めて以降、
藩主一族の位牌が置かれています。
「光明寺」。
一柳家の歴代墓所は江戸の祥雲寺。
外様藩は自領に墓所を設けていましたが、
小野藩は墓所を設置していませんでした。
※外様諸藩は藩主が江戸で死去しても、
自領の墓所に遺髪等を治めていました。
9代一柳末延は小野陣屋で病死した為、
光明寺に葬られたようです。
「小野藩藩主一柳家墓所」。
墓地には藩主の墓らしきものが無いので、
お寺の方に訪ねてみると、
寺の裏手に案内して頂きました。
設置されていたのは崖の傍です。
「見性院殿前土州太守禅林貞定居士」。
小野藩9代藩主一柳末延の墓。
彼の治世に加古川筋一揆が発生。
※飢饉と商人の米買い占めにより発生。
加古川流域の諸藩が被害に遭いました。
著名な国学者大国隆正を招聘し、
藩校帰正館を創設しました。
歴代藩主で唯一小野で死去しています。
「雲松院殿前土州太守俊巖義傑大居士」。
小野藩10代藩主一柳末彦の墓。
安政2年に家督を継いでいますが、
文久3年に隠居しています。
明治14年まで生きていますが、
不思議なのは彼が生涯独身であった事。
藩主の使命は後継を残す事ですが、
在任中に正室を置かなかった事や、
明治以降も妻を娶らなかった事は、
良縁に恵まれなかった等ではなさそう。
同性愛者だったのでしょうか?
「真妙院殿月妙喜大姉」。
11代一柳末徳の次女喜久子の墓。
赤穂森子爵家当主森忠恕の妻ですが、
後に忠恕と離婚していますので、
実家に帰ってから亡くなったのでしょう。
小野藩一柳家に関しては、
なかなか詳しい資料が見つからず、
記載できる内容が少ない。
その割に10代末彦の独身の謎や、
喜久子の離婚の理由など、
気になる事が多いのは歯がゆいところ。
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小野藩一柳家の陣屋跡。