小松藩の参政であった竹鼻正脩は、
7代藩主一柳頼親に藩校設立を進言し、
これが認められ藩校養正館が設立されます。
竹鼻は川之江の儒者近藤篤山を教授に迎え、
藩校を幕府の学問所昌平黌に倣って整備。
藩士子弟のみならず庶民にも門戸を開き、
藩内外に人材を輩出しました。
「養正館址」碑。
養正館は小松陣屋の御竹門の外に位置し、
敷地は約450坪であったという。
内部には講堂、教官詰所、講義所、
素読所、文庫、練武場が設置され、
教師として儒官が1名、学頭1名、
助教3名、助教補欠1名、
助読3名が置かれました。
御目見以上の10歳の藩士子弟が、
強制的に入学を義務付けられ、
素読過程を終了しなければ、
卒業できなかったようです。
学科は漢学と習字に分かれており、
漢学は素読、講義、輪講会読、自習、
武芸は弓術、馬術、槍術、剣術、柔術、
拳法、砲術、水練、兵学。
剣術は無外流、真蔭流、
槍術は一指流、大島流、
馬術は大坪流、拳法は真揚流、浅山流、
砲術は亀島流、兵学は甲州流でした。
「近藤篤山旧邸」。
篤山は養正館教授を務める傍ら、
自宅で挹蒼亭、緑竹舎の2塾を開きました。
挹蒼亭は藩内有志を対象とした塾で、
一柳亀峰、菅橘洲、遠藤石山が学び、
緑竹舎は他藩の入門者を対象とした塾で、
門下には西条藩士日野和煦、
松山藩士宮原瑤月、
宇和島藩士上甲振洋らがいました。
「篤山先生墳墓」標柱。
旧街道沿いにこの碑を見つけたので、
家族を車で待たせて歩いて行ってみます。
こういう標柱は遠いことが多いのですが、
ここもご多分に漏れず結構遠く、
結局は県立小松高等学校の近くでした。
炎天下を歩いて汗がダラダラ・・。
「黒川中将墓處入口」。
通学路の途中にありましたが、
地元の出世頭だろうと思い、
これをスルーしかけましたが、
スマホで調べてみると幕末期の人物。
これは参拝せねば・・。
「陸軍中将従一位勲一等男爵黒川通軌墓」。
道なき道を進み辿り着いたのは黒川家墓所。
結局は高校の脇に出るので、
高校敷地内から行く方が楽だったでしょう。
※高校敷地から行けるかはわかりません。
黒川通軌は近藤篤山の長男近藤南海に学び、
後記する田岡俊三郎らと尊攘運動を展開。
生野の変に敗れた澤宣嘉の潜伏も助け、
維新後に陸軍の入隊し、
明治6年に陸軍大佐に昇進。
陸軍裁判長兼軍馬局長に任命され、
佐賀の乱、神風連の乱の鎮圧に従軍し、
西南戦争で熊本鎮台第三旅団長として活躍。
更に陸軍少将及び広島鎮台第五師団司令官、
明治18年には中将に昇進、
第三及び第四師団長歴任後、
明治26年に東宮武官兼東宮大夫を拝命。
皇太子(大正天皇)の養育に当たりました。
明治36年に死去。
「贈正五位田岡俊三郎之碑(表忠碑)」。
小松高校正門前にある田岡俊三郎の碑。
田岡は小松藩士田岡表蔵の子として生まれ、
藩校養正館で近藤南海に儒学を学び、
槍術師範佐伯孫太夫に一旨流を学びました。
嘉永3年より槍術修行で各地を遊歴し、
帰国後は槍術の指導にあたっています。
文久2年に情勢探索のため京都へ派遣され、
藤本鉄石、松本奎堂ら他藩士と親交し、
尊王攘夷運動を運動を展開しました。
その後は脱藩して七卿と共に長州へ下り、
澤宣嘉に従って生野の変に参加。
澤を護って美作、備前、讃岐に潜伏し、
伊予に戻って澤を匿っています。
その後、澤を長州に送り届けると、
そのまま長州に滞在しており、
長州藩の京都進発に同行して、
禁門の変に参加し戦死しています。
「近藤家墓所」。
小松高校通学路脇にある近藤家の墓所。
「篤山近藤先生墓(左)」、
「篤山近藤先生配合田氏墓(右)」。
篤山の墓と篤山の妻合田氏の墓。
篤山は養正館で人格完成の三本柱として、
立志、慎独、求己の三戒が重要と説き、
また婦女子の教訓として四如の喩を説いて、
藩士のみでなく庶民に対しても、
さらに藩外へも大きな影響を及ぼした。
松代藩の佐久間象山は手紙の中で、
篤山を徳行天下第一の人物と讃えており、
伊予聖人と呼ばれて尊敬を受けたという。
「篤山近藤先生墓表」。
家屋に囲われた篤山の顕彰碑。
反射して何と書いているかわかりません。
近藤家の墓には篤山の他にも、
長男近藤南海、次男近藤簣山など、
近藤家一族の墓もありましたが、
写真を撮るのを忘れてしまいました。
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