龍泉寺は附家老越前府中本多家の菩提寺。
応安元年(1368)に守護藤原義晴が創建し、
開山の通幻禅師の遺命により、
各地に散った弟子達が輪番制で住職を務め、
これが江戸時代中期まで続きます。
※この輪番制で福井を訪れた住職らは、
大本山である永平寺も参拝しますが、
その荒廃を嘆いて復興運動を展開します。
戦国時代には一向一揆で焼失しますが、
江戸時代に本多富正が領主となると、
龍泉寺に高禄を喜捨して復興しており、
以後は本多家の菩提寺としました。
「龍泉寺本堂(左)と白雲台(右)」。
龍泉寺は維新後に本多家の庇護を失い、
庫裏の白雲台を残して諸堂を解体し、
昭和40年代に再建されました。
白雲台は江戸後期に建てられたもので、
ニ重寄棟、桟瓦葺(当時茅葺)の巨大な庫裏。
「西南戦死碑」。
西南戦争で戦死した地元9名の慰霊碑。
秋月宗温、上坂将一、野口八郎、
高橋安良、山口隆、成井智美、石川敬義、
村上栄助、吉田興三太郎。
本堂脇にあります。
「耕雪松井翁碑」。
篤志家松井耕雪の顕彰碑。
耕雪は代々鎌などの打刃物を売る商人で、
学問を好んで詩画に通じていましたが、
領内の教学の不振を嘆き、
私財300両を献じて郷校立教館を創立させ、
良師を招いて経常費の一部も負担しました。
その他に産業開発にも意欲を発揮し、
府中製産役所を興して打刃物の輸出。
維新後は岩倉具視に経済国策を献言し、
廃藩後は敦賀県権大属に任命されました。
明治18年、死去。
この西南戦死碑と耕雪松井翁碑の間に、
[成仁碑]という碑があるのですが、
訪問時は何の碑かわからずにスルー。
実は武生騒動(後記)の犠牲者の追悼碑で、
当主本多副元が建立したものでした。
さて、本多家の墓所へ。
「護墳之碑」。
本多家墓所入口にある碑。
廃藩置県で主従関係が消滅しますが、
それでも本多家に忠誠を誓った旧家臣らは、
明治6年にこの碑を建立しました。
「越前府中本多家墓所」。
結構広い墓域に本多家一族の墓が並ぶ。
前期の当主は巨大な五輪塔で、
後期の当主や親族は方柱型の墓碑です。
「普照院殿従五位下元覺正圓圓大居士」。
越前府中本多家初代本多富正の五輪塔。
初代本多富正は結城秀康に幼少より従い、
豊臣政権下で秀康の家老として補佐を務め、
関ケ原後に秀康が越前一国を与えられると、
御附家老として藩の執政となります。
秀康の死後も幕命で福井藩の執政を行い、
2代藩主松平忠直の補佐も担当。
その後のお家騒動を経て敵対派閥を一掃し、
大坂の陣では福井藩兵の指揮を執りました。
福井藩が複数の藩に分割された後も、
富正は主家の恩義を理由に福井藩に残り、
以後は歴代当主が福井藩を支えています。
「慈徳院殿〇嶽良親大居士 神儀」。
越前府中本多家8代本多富恭の墓。
※〇内の文字は解読できませんでした。
安政3年に父本多副昌の隠居で家督相続。
文久3年に死去していますが、
郷校立教館の創設に関わっています。
「明徳院殿蘆嶽普照大居士 神儀」。
越前府中本多家9代本多副元の墓。
常陸府中藩より富恭の養嗣子となり、
8代富恭の死により家督を継ぎます。
御附家老として藩主名代を務め、
天狗党の乱ではその鎮圧に出兵した他、
長州征伐や北越戦争にも出陣しました。
明治2年の華族制度の発足では、
陪臣として華族の称号は与えられず、
越前府中本多家は士族とされた為に、
これを不服とした家臣や領民らが暴動。
藩が鎮圧を行って170余人が捕縛され、
3人が死罪がとなっており、
12人が拷問などで獄死しました。
その後も本多家家老松本晩翠ら旧臣が、
引き続いて昇格運動を展開し続けた末、
明治12年に華族に列せられ、
旧臣の願いが叶うに至っています。
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尾張藩附家老竹腰家の陣屋跡。