御附家老は将軍家一族が大名となる際、
将軍家の譜代家臣より付けられる家老で、
藩主教育、藩の運営、幕府との調整を行い、
藩政を担う重要なポジションなのですが、
直参から陪臣へと家格が下がる為、
実に割を食う役割といえます。
この役割を担う為には使命感が必要で、
本来は直参としてやっていけるところを、
身分を投げうって盛り立てるのですから、
かなりの覚悟が必要となります。
福井藩にも附家老本多家がいましたが、
少し特殊な立場だったようで、
初代本多富正は結城秀康に幼少より従い、
豊臣政権下で秀康の家老として補佐を務め、
そのまま秀康に従い続けています。
この様に完全な秀康の家臣でしたが、
幕府は富正を附家老として扱い、
他家の附家老と同様の待遇を与えました。
居城越前府中城も一国一城令の例外となり、
本多家が代々城主を務めています。
※規模は変わらずに名称は御館となる。
「越前市役所(越前府中城跡)」。
現在の越前府中城は完全に埋め立てられ、
本丸跡地は越前市役所となっています。
本庁舎建設工事で石垣が発見されますが、
発掘調査の後に埋め戻され、
その上に今の市役所が建てられました。
訪問時もまだ工事中です。
跡碑もブルーシートに覆われており、
写真に収める事は出来ませんでした。
しかし観光資源が発掘されたのに、
わざわざ埋め戻すってもったいないですね。
交通の便が良くなった現在において、
市役所を市街中心部に持って来る必要ある?
街はずれに建てたらいいんじゃない?
部外者ながらそう思ってしまいます。
「正覚寺山門(旧府中城表門)」。
殆ど唯一の越前府中城の現存遺構。
廃城の際に移築されたものです。
越前府中城はその名の通り、
越前国の国府が置かれた場所でしたが、
朝倉家の台頭によって、
一乗谷が政治の中心となります。
後に府中城は織田信長の越前侵攻を経て、
前田利家に与えられて石垣の城に改修。
利家が能登に移ると嫡男前田利長が預かり、
後に丹羽長秀が越前を与えられると、
丹羽家の支城となりました。
長秀の没後は木村重茲、青木一矩と、
短期間で城主が入れ代わり、
結城秀康が越前を与えられると、
附家老本多富正に与えられます。
富正は秀康死後も福井藩の執政を行い、
2代藩主松平忠直の補佐を担当。
しかし家臣が分裂するお家騒動が発生し、
武力鎮圧に発展して多数の死者を出します。
最終的に幕府が裁定に乗り出した結果、
富正派が勝利して敵対派閥を一掃。
この一件で家康は富正を叱責しますが、
同時に忠直を補佐せよと激励。
改めて福井藩の執政が命じられました。
大坂冬の陣では豊臣寄りの家臣団をまとめ、
幕府軍として福井藩は参戦していますが、
る木村重成や真田信繁により大打撃を受け、
夏の陣でも家康に臆病者と叱責された為、
討死を覚悟で大坂城一番乗りを果たし、
大戦果を挙げてた為に、
越前勢が戦功第一と称されました。
後に忠直は乱行によって強制隠居となり、
福井藩は複数の藩に分割されますが、
富正は主家の恩義を理由に福井藩に残り、
越前府中本多家は福井藩の附家老として、
歴代当主が福井藩を支えています。
越前府中城は平城であった為、
維新後に廃城して堀が埋め立てられると、
遺構は何も残らなかったようです。
その跡地は武生小学校の敷地となり、
小学校が移転すると役所となっており、
平成の大合併により越前市役所に転用され、
現在に至っています。
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