悲田院は貧しい人の救済の為の施設で、
奈良時代の興福寺に設置されたのが始まり。
後の平安京にも東西2ヶ所に置かれますが、
双方とも廃れて消滅してしまいました。
鎌倉時代後期に無人如導が悲田院を再興し、
室町期に後花園天皇の勅願寺なりましたが、
戦国時代の戦火によって衰退。
後に高槻藩初代永井直清が復興し、
悲田院を菩提寺としています。
「山門」。
朱色の山門が目印。
悲田院は泉山七福神巡りの五番目で、
毘沙門天の朱印を授与しているようです。
「本堂」。
本尊は逆手の阿弥陀如来立像。
拝観には予約が必要との事。
本堂脇からは京都市街が一望できます。
本堂裏手の墓地へ。
「永井家墓所」。
初代永井直清より12代永井直矢まで、
歴代藩主の笠塔婆型の墓碑が並びます。
元々は日吉ヶ丘高等学校の敷地にあり、
その建設でここに纏められたとのこと。
つまり日吉ヶ丘高校は墓地だったのが、
学校に伝わる怪談とかありそうですね。
「右近大夫永井月丹居士碑銘」。
永井宗家初代永井直勝の頌徳碑。
徳川家康の嫡男松平信康に仕えますが、
信康は武田家との内通を疑われ、
織田信長の要求で切腹を命じられます。
直勝は信康の切腹後に隠棲していますが、
召し出されて家康の家臣となり、
小牧長久手の戦いで池田恒興を討ち取り、
後に池田輝政が家康の次女督姫を娶った際、
直勝に父を討ち取った時の話を聞き、
その際に直勝の知行が5000石と知って、
父の首は5000石程度かと嘆いたという。
しかしその後も直勝は戦功を挙げ続け、
最終的に7万2000石を領しています。
※輝政が家康に直勝の加増を訴えたとも。
「宗明院殿月峯空閑大居士(左)」、
「本光院殿心谿宗安大居士(右)」。
初代永井直清の墓と2代永井直時の墓。
初代直清は直勝の次男として生まれ、
2代将軍徳川秀忠の小姓を経て大名となり、
山城長岡藩を立藩しました。
その後も加増を受けて高槻藩に転封し、
畿内の要職を務めています。
2代直時は父永井直吉が病弱で、
直清に先立って死去した為に嗣孫となり、
祖父の死後に家督を継ぎましたが、
9年の治世で死去してしまいました。
「眞浄院殿月溪宗印大居士(左)」、
「高松院殿節溪宗貞大居士(右)」。
3代永井直種の墓と4代永井直達の墓。
3代直種は宗家淀藩2代永井尚征の四男。
直時に継嗣が無かったために養子となり、
その死後に家督を継いでいます。
文武に優れて絵も嗜んだようですが、
15年の治世の後に死去。
4代直達も宗家よりの養子。
直種の実子永井直英が幼少であった為、
宗家の長男ながら養子に入っていますが、
この直達も早逝しています。
「天眞院殿月江宗閑大居士」。
5代永井直英の墓。
直英は3代直種の実子ながら
幼少の為に宗家より直達が跡を継ぎ、
直達の早逝によって12歳で家督を相続。
しかし彼も21歳で病死しました。
「三径院殿菊隠宗芳大居士
霊光院月窓妙心大姉(縦並びの中央)」。
6代永井直期とその正室の墓。
※単体での写真を撮り忘れて、
どうにか探した写真です。
直期も宗家よりの養子。
藩主が10年前後で交代が続き、
直期の代で33年の安定を得ました。
しかし相次いだ藩主交代で財政は傾き、
増税等の政策で百姓を苦しめました。
「本眞院殿月洞宗郭大居士(左)」、
「圓乗院殿諦空宗賢大居士
唯心院徹岫妙悟大姉(右)」。
7代永井直行の墓と、
8代永井直珍とその正室の墓。
直行は6代直期の長男に生まれ、
直期の隠居により家督を継いでいますが、
10年の治世の後に死去しています。
8代直珍は6代直期の三男に生まれ、
兄直行の死去により家督を相続しましたが、
こちらは12年の治世で死去。
「法心院殿瑞林宗雲大居士
秋光院徹眼妙照大姉(左)」、
「瑞鳳院殿徳翁宗壽大居士(右)」。
9代永井直進とその正室(左)の墓と、
10代永井直与(右)の墓。
直進は8代直珍の嫡男として生まれ、
直珍の死去に伴い家督を相続。
6代直期以来の長期にわたり藩主を務め、
幕府より京都火消役を拝命しています。
10代直与も長期の治世を行っており、
藩政改革にも着手していますが、
特筆する効果はありませんでした。
「従五位永井直輝之墓」。
11代永井直輝の墓。
唯一笠塔婆型の墓碑ではありませんが、
これは死去が維新後だった為、
神式の墓碑に変更されたからでしょう。
直輝は10代直与の次男に生まれ、
直与の隠居により家督を相続します。
彼の時代より幕末に突入しており、
先々代より拝命していた京都火消役を務め、
幕府より国難について意見が求められると、
鎖国維持と蘭国通商の強化を提言しました。
文久元年に隠居して余生を過ごし、
明治7年に死去しています。
「真諦院殿本空宗継大居士」。
12代永井直矢の墓。
杵築藩9代松平親良の次男で、
11代直輝の養子となっており、
動乱の文久元年に家督を相続。
幕府より京都火消役や二条城警備を拝命。
徳川譜代として幕府を補佐しましたが、
慶應元年に病死してしまいました。
13代永井直諒は旗本永井家の末期養子。
幕末も最末期に藩主に就任しますが、
佐幕派として京都火消役や、
孝明天皇の一周忌で泉涌寺警備を担当。
その後は日和見の姿勢で態度を保留し、
鳥羽伏見の戦いで旧幕軍が敗北すると、
上洛して新政府に恭順しました。
廃藩置県後は東京に移住しており、
直諒の墓はここにはありません。
京都市街ではこの規模の大名墓地は珍しい。
近くには歴代天皇墓所である泉涌寺もあり、
上記のように泉山七福神巡りもある事から、
意外に知られている大名墓地のようですね。
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