大野市に2度目の訪問。
前回訪問時はあいにくの雨でしたが、
今回は青天に恵まれました。
再度大野市を訪れた理由は、
幕末大野藩を支えた内山兄弟の墓所及び、
藩主家墓所と大野城への再訪が目的です。
大野藩は7代藩主土井利忠の下で、
大規模な藩政改革が推進される事となり、
財政健全化、軍制改革や人材育成が図られ、
どれも大きな実績を挙げました。
その改革に大きな役割を果たしたのが、
今回を訪問する内山良休、内山良隆兄弟。
内山家の墓所は市街西端にある洞雲寺。
「山門」。
洞雲寺は斯波氏の家臣二宮将監が開基し、
元勅禅師によって開山された曹洞宗の寺院。
後に二宮家は朝倉孝景に滅ぼされますが、
代わって朝倉家の外護を得て存続しました。
その朝倉家も織田信長に大敗を喫し、
当主朝倉義景は大野に逃れ洞雲寺に入り、
再起を図ろうとしますが、
従弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に移り、
※賢松寺は現在の曹源寺。
そこで景鏡の裏切られて殺されています。
「本堂」。
境内はそれほど広くはありません。
本堂は築年はわかりませんが古いようで、
創建当時のものかもしれません。
「内山良休墓」。
山門を入ってすぐ左にある内山良休の墓。
大野藩士内山良倫の長男として生まれ、
江戸で朝川善庵などに学び、
武士にあるまじき商才を持っていたという。
藩主土井利忠に弟の良隆と共に抜擢され、
財政再建の為に藩経営の大野屋を設立。
大坂屋七太郎を代表者名義としました。
特産品の煙草などを大坂で販売し、
洋式帆船大野丸を建造して、
蝦夷の海産物も商い、
全国に支店も展開して各地特産品を販売し、
多額の債務返済に貢献しています。
この功績によって万延元年に家老に昇格。
廃藩置県後は旧藩士の授産に尽力し、
銀行類似会社の良休社を設立しました。
明治14年、死去。
「贈正五位内山良隆墓」。
本堂後脇にある内山良隆の墓。
大野藩士内山良倫の次男として生まれ、
大坂の緒方洪庵や、江戸の朝川善庵、
佐久間象山に学び、
帰藩後に兄と共に抜擢され軍制改革を担当。
北蝦夷開拓を献策して開拓に尽力し、
文久3年に執政兼軍務総督に就任しますが、
翌元治元年に病死してしまいます。
大野屋で知られる大野藩ですが、
大々的に洋学を振興した事でも知られ、
内山兄弟は適塾の緒方洪庵と親交が厚く、
伊藤慎蔵が洋学館で講義するなど、
大野藩の蘭学振興策に大きく貢献しました。
大野藩の財政再建及び諸改革は、
この内山兄弟の貢献なくしては語れません。
80万両の負債を返済して黒字経営とし、
当時の最先端の洋学学校を開設し、
人材育成、軍制を西洋化するなどの他、
当時未開の北蝦夷開拓にも乗り出しており、
これを4万石程度の小藩が成し得ました。
もちろん7代土井利忠あってこそですが、
その実務をこの兄弟が担当してなければ、
これ程の効果は得られなかったでしょう。
■関連記事■
・福井県大野市 大野城①
大野藩土居家の居城跡。
・福井県大野市 雨の中、大野市を巡る
大野市のその他の史跡。
・福井県坂井市 三国湊
大野屋の支店の建屋が現存しています。