大野藩藩主家の土井家の墓所は善導寺。
前回大野に行った際に訪問済みなのですが、
最近は幕末以外にも網羅するようになり、
また前回気になっていた事もあったので、
もう一度訪問する事にしました。
「善導寺」。
善導寺は永禄元年(1558)創建の寺院で、
当時は別名のお寺だったようですが、
慶長5年(1600)に結城秀康が転封した際、
大野周辺がその重臣土屋左馬助に与えられ、
寺号を善導寺に改められたとされます。
その後に土井利房が大野藩に入封すると、
善導寺は土井家の菩提寺に定められ、
歴代藩主の墓所も建てられました。
「土井家墓所」。
善導寺墓地にある土井家の歴代墓所。
以前訪問時も石製の地図はありましたが、
地図にある初代と4代の墓が見つからず、
幕末の藩主ではなかったので探すのを諦め、
モヤモヤっとしたまま後にしていました。
また8代の写真も撮り忘れており、
再訪せねばならぬ理由があった訳です。
「柳涯墓」。
7代土井利忠の墓。
名君として藩政改革や財政再建を成功させ、
藩を数少ない黒字経営の藩に導きました。
これは優秀な藩士あってこそですが、
その根本は「更始の令」という改革令で、
大野藩の財政難は我々皆の責任であるから、
君臣一体となってやり直そうという趣旨。
これで臣下が本気で改革に取り組みます。
士気を高める事がトップの役目であり、
これが改革の最大の効果となりました。
「寶岸院殿瑞蓮社賢譽慶趯山大居士」。
2代土井利和の墓。
初代土井利房の長男として生まれ、
利房の死後に家督を継ぎ、
大坂加番、奏者番などを歴任。
本多重益改易で丸岡城受取を行いました。
「道樹院殿前甲州刺史祥譽感徴顯大居士」。
6代土井利器の墓。
関宿藩5代久世広誉の十一男として生まれ、
5代土井利義の養嫡子となって、
利義の隠居によって家督を相続しています。
財政難に倹約などの改革を行いました。
「文良院殿正四位子爵忍譽徳賢恒大居士」。
8代土井利恒の墓。
利忠の隠居によって家督を継ぎ、
その改革路線を継承していますが、
軍事惣督内山隆佐が病死してしまい、
利恒が江戸在勤中に天狗党が領内を通過。
判断を誤った重臣により進路の村が焼かれ、
村民の怒りを買う事になっています。
維新後は箱館裁判所副総督に任命され、
大野藩兵を箱館に派遣しました。
「子爵土井利剛墓」。
土居家9代当主土井利剛の墓。
8代利恒の長男。
土井家は維新後に子爵家に列しています。
さて図には初代と4代もあるはずですが、
そんなものは見当たらない・・・。
でもあるはずとよくよく見てみると、
何もない場所に水鉢及び花立がある。
隆興院殿、大信院殿と刻まれていました。
「隆興院殿(右)」「大信院殿(左)」。
初代土井利房及び4代土井利貞の墓。
この自然岩が墓石のようです。
庭石かと思っていました。
何故こんな墓石なのかわかりません。
初代利房は大老土井利勝の四男に生まれ、
1万石を与えられて別家を創設。
奏者番、若年寄を経て老中に昇進し、
加増されて大野に4万石で入封します。
4代利貞は幼少で藩主となった為、
その治世は59年に及びますが、
洪水や火災、凶作等の天災が数多く発生し、
百姓一揆も起こりました。
以上が大野藩土井家の墓所。
3代と5代の墓は多磨霊園にあるようです。
冒頭で記した土屋左馬助の墓もありました。
「土屋左馬助正明君墓」。
結城秀康の重臣土屋左馬助の墓。
正明は3万8千石を与えられていましたが、
慶長12年(1607)に秀康が死去すると殉死。
徳川家康は越前年寄達に追腹を禁じており、
土屋家はこの罪により改易となりました。
土井家墓所に再訪して目的は達成。
次は大野城に登ろうと思ってた矢先、
福井市にいる同僚から連絡があり、
すぐに戻ってきて欲しいとの事。
2度目の大野訪問はこれにて終了となり、
後ろ髪を引かれながら後にしました。
■関連記事■
・福井県大野市 善導寺/大野藩主土井家墓所
前回訪問した際の記事。
・福井県大野市 大野城①/②
大野藩土居家の居城跡。
・福井県大野市 洞雲寺/内山良休、良隆墓所
大野藩の改革を主導した内山兄弟の墓所。