文久の修稜②

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宇都宮藩が最初に修復したのは神武天皇陵
初代天皇であり皇統の祖のお墓です。

神武天皇」月岡芳年~大日本名将鑑~。

まずは陵墓がどこかという事からスタート。
遥か昔に埋葬された天皇の墓がどこなのか?
当時の幾多の学者が捜し求めていました。
古事記」の記述では、 
御陵は畝傍山の北の方の
   白檮の尾の上にあり– 
日本書紀」の記述では、 
畝傍山の東北の陵に葬りまつる
とあります。
この事から以下の候補地が決められました。

①大和の畝傍山の丸山
②大和の白橿村山本のミサンザイ
③大和の四条村の塚山

山陵奉行戸田忠至(宇都宮藩家老)、
学者の谷森善臣北浦定政などが検証して、
②のミサンザイに決定されます。
この決定は現在も議論が分かれていますが、
兎に角ミサンザイを神武天皇稜と特定し、
修復工事が行われました。

他の天皇稜も特定され76ヶ所の天皇稜、 
他の親王や皇后稜も含めると、
109ヶ所が修復される一大事業となります。
ただの山だと思われていた稜墓も多く、
耕作地となった場所も多くみつかりました。
他藩の年貢地を減らすわけにもいかず、
周溝部はそのままでの修復を上申しますが、
幕府は周溝も掘るよう指示しています。
耕作地を減らされた藩や農民にとっては、
とても迷惑な話・・・。


文久山稜図」より垂仁天皇陵

この大規模工事を4年余で仕上げるのは、
担当の宇都宮藩は相当の手際だったようで、
朝廷からの恩賞もありました。
藩主戸田忠恕は従四位下に叙任され、
山陵奉行の戸田忠至は御剣を拝領。
幕府は忠至を大名格として諸侯に加えます。
朝廷からも幕府からも称賛され、
順風満帆の宇都宮藩・・・・。

・・が、そうは上手くはいかないもの。
天狗党の乱の不手際で減移封の憂き目に。
藩主忠恕は隠居、謹慎を命じられますが、
忠至の朝廷工作と山陵修復のおかげで、
なんとか減移封は免れました。
忠至の働きで危機を回避した宇都宮藩。
忠至に1万石を分与する事とし、
支藩として高徳藩が誕生します。

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■関連記事■
栃木県宇都宮市 宇都宮城
 宇都宮藩戸田家の居城。
下関市豊田町 安徳天皇西市御陵墓参考地
 参考地は全国に沢山あるらしい。
京都府京都市 伏見桃山陵
 明治天皇の御陵。

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