毛利元就の長男であった毛利隆元は、
弟の吉川元春、小早川隆景に支えられ、
父元就と共に覇権を進めますが、
謎の急死を遂げてしまいます。
隆元の長男毛利輝元は幼少ながら跡を継ぎ、
祖父元就の後見によって政務が進められ、
山陰山陽の覇者となっていきました。
織田信長による中国侵攻を迎え撃ち、
後に台頭した豊臣秀吉に従って重きを成し、
豊臣政権五大老のひとりとなっています。
しかし秀吉死後の関ケ原の戦いでは、
西軍総大将に祭り上げられて大厳封され、
山陰山陽8ヶ国から長門周防2国となり、
居城広島城から萩に本拠を移しました。
輝元は隠居して継嗣毛利秀就に家督を譲り、
秀就が長州藩初代藩主となっていますが、
実権は輝元が持ち続けて藩政の確立に尽力。
病を得た後に秀就に正式に隠居し、
寛永2年(1625)に死去しました。
「天樹院跡」。
輝元の隠居所跡に菩提寺が建てられ、
戒名の天樹院殿雲巌宗瑞大居士より、
天樹院と命名されました。
残念ながら維新後に廃寺となっており、
現在は敷地に輝元の墓が残るのみ。
門をくぐった先に輝元の墓があります。
廃寺前は本堂等があったのでしょうが、
今は両脇に石灯籠が並ぶだけの広い敷地。
輝元は境内の隠居所四本松邸で死去し、
そのまま荼毘に付されて葬られますが、
それ程ここが気に入っていたのでしょうか?
「天樹院殿雲巌宗瑞大居士(中央)」、
「清光院(左)」。
毛利輝元と正室南の大方の墓。
輝元は11歳で父の死によって家督を継ぎ、
祖父元就が後見して政務を行いますが、
徐々に権力を移行していったようです。
輝元は初陣で尼子家を滅ぼし、
毛利家に向後の憂いが無くなった為、
元就は隠居しようとしましたが、
輝元は元就に隠居を思いとどまらせ、
毛利家は元就の死まで二頭体制でした。
その後元就は死去しますが、
毛利家は両川体制を確立させており、
元就という巨星の死にも揺るぐ事はなく、
九州や四国にも勢力を伸ばし、
安芸、周防、長門、備前、備中、備後、
美作、因幡、伯耆、出雲、隠岐、石見、
上記12ヶ国、
及び讃岐、但馬、播磨、豊前の一部を領し、
織田信長に対抗する最大勢力となりました。
本能寺の変で信長が倒れ、
羽柴秀吉が明智光秀を倒すと、
軍事衝突を避けて領地を割譲して講和。
秀吉の紀州、四国、九州攻めに協力し、
天下人となった秀吉に臣従しました。
朝鮮出兵にも参陣しており、
豊臣政権の五大老となっていますが、
秀吉の死後は諸大名間で政治的抗争が激化。
その果てに起こった関ケ原の戦いでは、
総大将となっていますが、
吉川広家により動きが封じられて敗北。
※広家は毛利家存続の為に家康と内通。
家康は所領安堵を約束していましたが、
毛利家を改易して領地を没収する事とし、
広家に長門、周防2国を与えようとします。
これに驚いた広家は改めて弁明して、
この防長2国を輝元に与えるよう嘆願。
井伊直政からも約束反故の不義を訴えた為、
家康は考え直して輝元を隠居させ、
嫡男秀就が家督を継いだうえで、
防長2国を与え改易は回避されました。
輝元は剃髪して幻庵宗瑞を名乗りますが、
幼い秀就の後見としてそのまま実権を握り、
自身が元就と築いた二頭体制を再現。
以後は徳川幕府との折衝を重要視し、
大坂の陣にも派兵しています。
秀就に正式に家督を譲渡した後に隠居し、
寛永2年(1625)に死去。
家臣の長井元房が殉死しています。
「長井元房の墓」。
※戒名は墓石が浸食して読めませんでした。
長井は輝元の家臣でしたが、
出奔して諸国を放浪。
しかし輝元は密かに銀子を与えて庇護し、
長井が帰って来ると再び召し抱えています。
後に輝元が死去すると殉死していますが、
長井の可愛がっていた飼い猫は、
長井が埋葬された墓から離れようとせず、
四十九日法要で舌を噛んで死んでしまう。
それから長井の屋敷があった通りは、
猫町という名前が付けられたという。
猫の話に目を奪われがちですが、
出奔した家臣を支援した輝元にも驚き。
幕末期に通じるように思えました。
■関連記事■
・山口県萩市 大照院/長州藩毛利家墓所
長州藩毛利家歴代墓所のひとつ。
・山口県山口市 香山公園/長州藩毛利家墓所
13代および14代藩主の墓所。
・広島県広島市 広島城
かつての毛利家の居城であった城。
・萩市 指月城跡
長州藩毛利家の居城跡。