多羅尾家は近衛経平の庶子高山師俊を祖とし、
設楽一帯に勢力を持った一族で、
戦国時代は六角家に属していましたが、
六角家の没落後は織田信長に仕えました。
本能寺の変に伴う徳川家康の伊賀越えでは、
当主多羅尾光俊が家康一行を警護し、
無事に脱出させています。
光俊は後に豊臣秀吉に従いますが、
次男多羅尾光太の娘が豊臣秀次の側室となり、
後に秀次が切腹させられると連座して、
多羅尾家は改易させられました。
秀吉の死後、多羅尾家の困窮を知った家康は、
光俊、光太親子を旗本に取り立て、
後に畿内の天領代官職に任じて、
多羅尾家は代々代官を世襲しています。
「多羅尾代官所(信楽代官所)跡」。
代官所陣屋は上出集落西側の高台に築かれ、
現在は個人所有の土地となっていますが、
春期と秋期に一般公開されているようです。
残念ながら訪問時は夏で非公開。
門の外より中の様子を見る。
石垣が状態良く残っているようで、
中に入れないのは非常に残念です。
信楽代官所は多羅尾代官所とも呼ばれ、
支配地は5万~10万余石であったとされ、
後に四日市代官所を出張代官所として支配し、
詰役人が数名を派遣しています。
多羅尾代官は世襲で10代続き、
最後の代官は多羅尾光弼で、
慶応3年に家督を継いで代官職を継ぎ、
新政府に恭順して旧幕府領の統治を命じられ、
後に水口郡初代郡長などを務めた他、
信楽焼の振興に尽力しています。
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