永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山総持寺は、
700年前の元亨元年(1321)に、
瑩山紹瑾禅師によって開創されました。
翌年には後醍醐天皇の綸旨を下され、
[曹洞賜紫出世第一之道場]となり、
曹洞宗の大本山となって隆盛。
永平寺と地位や諸権利を争うものの、
幕府によって共に大本山に定められます。
その後の明治31年に全山を焼失した為、
神奈川県横浜市に移転しました。
これが横浜にある大本山総持寺ですが、
焼失した元の総持寺は祖院として再建。
総持寺祖院として別院となっています。
「三松関」。
総持寺の総門で切妻造桟瓦葺の高麗門。
横浜の総持寺の総門も同じく三松関という。
名称は傍にあった三本松に由来します。
「経蔵」。
加賀藩6代藩主前田吉徳の寄進による経蔵。
火災を免れた寛保3年(1743)の建築物です。
「芳春院」。
総持寺の塔頭。
加賀藩初代藩主前田利長の生母芳春院は、
総持寺に参詣した際に塔頭建立を懇願し、
慶長14年に代官屋敷を移築したもの。
名のとおり芳春院の菩提所となっています。
「山門」。
総欅造りの楼門でしたが、
火災で焼失した後に再建したもの。
楼上に観音菩薩、五百羅漢を祀ります。
扁額は16代当主前田利為の筆。
これほどのものを昭和期に再建するとは、
流石は曹洞宗といったところですね。
山門をぬけると美しい中庭が。
この庭を山門回廊が囲んでおり、
見る場所によってその表情を変えます。
「仏殿」。
本尊の釈迦牟尼仏を安置する仏殿。
大正元年に再建されたもの。
内部の客殿を兼ねた相見の間には、
襖に書かれた山岡鉄舟の書があるという。
「法堂(大祖堂)」。
桟瓦葺入母屋造の法堂。
こちらも大正期に再建されたものですが、
内部には火災の際に持ち出されて、
焼失を免れた部材が再利用されています。
「伝燈院」。
元禄6年建立の開山瑩山紹瑾の霊廟。
明治31年の火災での焼失を免れたもの。
大本山移転後もこの場所が聖域なのは、
瑩山の墓所だからでしょう。
「慈雲閣」。
總持寺開基以前の建立と伝わる観音堂。
僧形観世音菩薩が祀られています。
こちらも火災を免れた建物で、
総持寺祖院で最も古い建築物。
幕府は本末制度において、
本山を一つとするように、
各宗派に通達していますが、
曹洞宗では永平寺と総持寺の2寺とし、
双方を大本山とします。
日本の曹洞宗開祖は道元とされ、
永平寺は道元の開山した寺ですが、
永平寺3世徹通義介が三代相論で下山し、
加賀の大乘寺に移り住持となります。
この徹通の弟子が瑩山で
瑩山は徹通の没後に大乘寺の住持となり、
後に能登に招かれて永光寺を開山しました。
諸岳寺(現慈雲閣)の住職定賢は、
霊夢を見て瑩山に諸岳寺を譲り、
瑩山は諸岳寺を総持寺に改めて開山。
総持寺は曹洞宗を広めて隆盛を極め、
全国に布教を広げていきます。
一方の永平寺は一時廃寺同然まで衰微し、
総持寺の支援を受けて盛り返していますが、
開祖である道元開山の永平寺と、
曹洞宗を広めた中興の瑩山開山の総持寺と、
どちらが大本山であるか議論が分かれ、
決めかねた幕府は双方を大本山としました。
そういう訳で曹洞宗の大本山は、
永平寺と総持寺の2寺となったようです。
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もうひとつの曹洞宗大本山。
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大乘寺には加賀本多家の墓所があります。