小串浦は響灘に面する海岸線に位置し、
川棚川北側の砂浜辺りから、
笠松ノ鼻南麗辺りまでに至る集落。
かつては子牛の産地であった為に、
これが転化して小串になったとされますが、
長崎県西部に小串と川棚が揃うも場所あり、
その関連性も指摘されてはいますが、
理由については判明していないようです。
小串浦は漁村ではあったものの、
赤間関街道北浦道筋の街道筋にも位置し、
市宿も開かれていたようで、
諸職人や商家が集まっていたという。
街道は殆ど真っ直ぐ伸びており、
その両脇に家屋が立ち並んでいますが、
どの辺りからが始まりかわからないので、
今回は小串駅より北側を散策します。
「光圀稲荷神社」。
街道沿いの稲荷山に鎮座する稲荷神社。
光圀の名称から水戸黄門を想像しますが、
由緒書を読んでも名称の説明は無し。
圀という字は則天文字とされる漢字で、
武周の女帝武則天が漢字を変えたもので、
武則天の死後には使われなくなったもの。
日本では徳川光圀しか使っておらず、
他に京都の本圀寺も使用していますが、
これも光圀の名から拝領されたものなので、
水戸黄門好きの誰かが名付けたのでは?
由緒としては平安時代に疫病が発生した為、
海岸の小山に祠を設けて、
熊野の役行者を招いて病魔退散を行い、
これが効いて疫病が収まったとされ、
以来村人はこの祠を権現さんと呼んで信仰し、
五穀豊穣や大漁安全を祈願したという。
江戸中期に権現さんの新社殿が完成し、
稲荷川の上流に遷座してしまいますが、
旧祠も藪神様として信仰は続き、
後の大正期に伏見稲荷から勧請を受け、
稲荷大明神となっています。
稲荷山山頂は展望が出来るようになっており、
沖合2kmの男島(左)女島(右)が望めます。
この2つの無人島は海風を浦から守り、
良い漁場を漁民に提供しました。
ゆきちゃんは寒さに負けず元気です。
稲荷山を下りて街道筋を進む。
どこまでも街道は続く。
両脇はリフォームされてるとはいえ、
古い家屋が多く残っています。
1km近くが市だったのではないでしょうか?
街道から東側に伸びる川中神社参道。
先でJR山陰本線と国道191が交差します。
川中神社の詳しい由緒がわかりませんが、
たぶん先程の権現さんが再遷座したと思われ、
周辺の神社を合祀して現社名となった模様。
海から社殿が見えたようで、
北前船は船上から航海安全を祈ったという。
「小串漁港」。
笠松ノ鼻の南側にある小串漁港。
北浦に多くある第2種漁港のひとつで、
響灘に突き出た笠松ノ鼻は、
切石と呼ばれる巨大な花崗岩で出来たもの。
この海側に蝙蝠の住む洞窟が開いており、
風波が強いと怒号のような音が発生する為、
その洞窟は大吼谷蝙蝠洞と名付けられ、
これが国の天然記念物に指定されています。
海沿いの通りの街並み。
こちらは漁師の家々が並んでおり、
街道沿いの雰囲気とは違い港町らしい。
古い蔵もありました。
小串には多くの古い家屋が残っている様子。
規模もかなりのものであったようで、
かつての繁栄具合が伺い知れます。
「小島神社」。
小串漁港北側にある小島神社。
恵比寿様を祀っているようですが、
由緒はよくわかりません。
名称から小島だったのでしょう。
小串はかなり栄えた浦だったようですが、
吉田松陰は北浦巡視でここはスルーし、
特牛湊から南下して小串を通り過ぎ、
蓋井島に上陸しました。
松陰の巡視の目的は海防であった為、
遠浅で断崖のある小串への攻撃は困難と考え、
先を急いだようです。
ここから北側の集落である湯玉浦までは、
確かに断崖が続く道筋になっており、
北浦道筋の難所のひとつとなっていました。
挙句には追い剥ぎも出没したようで、
夜に通行する者の前に現れては、
身包み全てを奪っていたという。
これに困り果てた両浦の地元衆は、
安岡で道場を開いていた島田虎之助を訪ね、
追い剥ぎ退治を依頼しています。
■赤間関街道/萩往還の宿場町
■関連記事■
・島田虎之助の追剥ぎ退治
領民らは島田虎之助に追剥ぎ退治を依頼。
・下関市豊浦町 湯玉浦/庄屋石川邸跡
小串浦のひとつ北側の集落。
・下関市豊浦町 川棚温泉
長府藩領の温泉町。
・下関市豊浦町 黒井村
北浦道筋沿いに市が開かれていました。