芥川宿は西国街道の2番目の宿場町。
芥川は元々摂津国人芥川氏の本拠で、
城館が置かれていたという。
高槻市芥川周辺。緑の線が街道筋で、
青でぼかした辺りが芥川宿跡。
JR高槻駅前の商店街を抜けた所にあります。
「芥川仇討ちの辻」。
商店街の端にある寿司八百鶴にある説明板。
加藤家会津藩2代加藤明成の頃、
会津藩士早川某は明成に暇を出されますが、
何も心当たりがなかった為、
同僚の松下源太左衛門の讒言であると疑い、
これを恨んで病死しました。
その死に際に息子早川八之丞を枕元に呼び、
供養の代わりに源太左衛門の首を取り、
墓前に供えよと遺言します。
後に加藤家は明成の不行跡から改易となり、
長男加藤明友が1万石で再興しますが、
源太左衛門は加藤家を去って尾張藩に仕官。
江戸屋敷で勤務していましたが、
これを仇と狙う早川八之丞が見つけ、
源太左衛門を討ち果たしました。
源太左衛門の幼い息子松下助三郎は、
これを聞いて仇討ちを心に決め、
日夜剣術修行に励みます。
腕も上達した事から仇を求めて旅に出て、
高槻城下で虚無僧となった八之丞を発見。
芥川宿に宿泊して宿場を出たところを、
助三郎は名乗り出てこれを仕留めました。
討たれた八之丞の懐からは、
[自分は仇を討たれて当然であり、
討つ側に咎はない]との書状が見つかり、
この仇討ちは美談として世間に喧伝され、
双方とも見事な武士道と称されています。
「芥川一里塚」。
芥川宿の東の入口にあたる一里塚の跡で、
両側に門のように建てられていましたが、
現在はその片側だけが現存。
祠の裏の榎が生えているのが一里塚で、
前の祠は荒神社です。
「芥川宿跡」。
街道筋は住宅街となっています。
JR高槻駅が完成してからは、
商業の中心は駅前に移ってしまったようで、
現在は殆ど店舗はありません。
「芥川本陣跡」。
芥川の本陣を務めた河内屋平井家邸跡。
残念ながら何も残っていません。
八月十八日の政変で京都を追われた七卿は、
文久3年8月19日には芥川宿まで落ち、
この河内屋で宿泊しています。
上記した様に宿場跡は駅前近くの住宅街。
その割には意外にも古い家屋が残っており、
街道筋を歩いていて驚かされます。
天保14年の大概帳によると、
芥川宿は東西9町、家数253軒、
人数1150人、本陣1軒、
旅篭屋は33軒という規模でした。
「芥川宿水門跡」。
芥川宿の西側の入口にあたり、
西側を流れる芥川が増水した場合には、
ここに止水板をはめて氾濫を防いだという。
「芥川の金比羅燈籠」。
江戸時代に流行ったこんぴら詣の為、
芥川の人々が設置した常夜燈。
金刀比羅大権現までの道程63里半が示され、
旅人の為の道標となっていました。
往時はもう少し川沿いに建っていたという。
■西国街道の宿場町
■関連記事■
・京都府乙訓郡 山崎宿跡
西国街道の1番目の宿場町。
・大坂府箕面市 瀬川宿跡
西国街道の4番目の宿場町。
・大阪府高槻市 高槻城跡
芥川宿近くにある高槻城跡。